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▲「中国語で誤解しないように」バックナンバー(第101〜120回)
▲「中国語で誤解しないように」バックナンバー(第81〜100回)
▲「中国語で誤解しないように」バックナンバー(第61 〜 80回)
▲「中国語で誤解しないように」バックナンバー(第41 〜 60回)
▲「中国語で誤解しないように」バックナンバー(第21 〜 40回)
▲「中国語で誤解しないように」バックナンバー(第01 〜 20回)
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日本語の「指摘」は、問題のある事柄を取り出して示すことであり、「不備な点を指摘する」とか「欠点を指摘する」との使い方をします。一方中国語の『指摘』は、誤りや過ちを指摘して非難するする場合に使われます。日中両国語の使い方が全く異なっています。
日本語の「指摘」は、「彼は会報で私の理論上の弱点を指摘した」や「人が自分の欠点を指摘した時に怒るのはよくないことだ」、そして「ご指摘の箇所は既に改良した」や「彼の性格には特に指摘すべき欠点がない」等があります。これを中国語で表現すると『他在会报上指出我的理论上的弱点了』、『別人指出自己的缺点、就恼火是不好的』、『你指出的地方、我已经做了改善了』、『在他的性格上、没有特別指出的缺点』となり、全て『指出』で表わせます。
一方中国語の『指摘』の例は、『他受到了大家的指摘(彼は皆から非難された)』や『我时常遭受上司的指摘和責骂(私はしょっちゅう上司から非難されたり怒られたりしている)』、『免得受人指摘、还是自尊自重的好(人からとやかく言われないようにするには、やはり自重することが肝要だ)』などがあります。また『无可指摘』は「非難すべきところがない」との意味で、通常の日本語でいうと「非のうちどころがない」とのことになります。
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日本語の「白紙」は「しろがみ」と「はくし」の2ッの読み方をすることが出来、「しろがみ」と読んだ場合は白い紙のことですが、「はくし」と読んだ場合は「白い紙」との意味と併せて、「先入観のないこと」「何もなかった状態」「書くべき紙に何も書いていない状態」の3つの意味を持っています。
一方中国語の『白纸』は正に白い紙であり、色がある紙に対する白い紙、並びに字や絵などが書かれていない白い紙との「しろがみ」の意味しかありません。
中国語に『白纸黒字』という四字成句があります。これは白い紙に書かれている黒い字ということで「書面に表された動かない証拠」とのことを意味しています。『这是白纸黒字、谁也頼不掉』とか『这是白纸黒字、你还想抵頼?』として使われます。
前者は「これはれっきとした証拠で、誰もいちゃもんをつけられない」との意味であり、後者は「動かない証拠があるのに、君はまだ言い逃れをするのか?」との意味です。なお『頼不掉』も『无法抵頼』も「言い逃れが出来ない」との意味ですが、上記の邦訳はちょっと表現を変えてみました。
扨て日本語の「はくし」と読んだ場合の「白い紙」以外の使い方の用例を挙げてみましょう。「先入観がない場合」の用例は、「この問題について、当方は白紙で会議に臨む」や「この件について、私はまだ白紙の状態だ」があります。中国語で『关于这个问题、我们没有任何成見地出席会议』や『对于这个事情、我还没有什么成見』と『没有成見』で表現します。「何もなかった状態」の用例は、「我々はこの問題を白紙に戻すことにする」や「私は今回の回答を全て白紙撤回する」などがあり、中国語で『我们把这个问题拉回到原状吧』や『我把这次的回答一律作废』となります。これは『恢复原状』や『収回诺言』でも表現出来ます。最後の「書くべき紙に何も書いていない場合」の用例としては、「何も書いていない紙」、「白紙委任状」、「白紙答案を出した」などがあり、中国語でそれぞれ『空白的纸』、『空白委任状』、『交了白巻』と表現します。
なお中国語で「顔色が真っ青」な状態を『臉色熬白』や『臉色刷白』と表現しますが、『臉如白纸』と『白纸』を使って表現することもあります。
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日本語の「適宜」は2つの意味があり、1つは「本件は適宜な処置が必要である」と表現される、その場にぴったり合っている場合に使われ、もう1つは「その辺は適宜に処置して下さい」とい表現されるように、適当にとか、随意にとかいう若干幅をもたせた場合に使われます。
日本語の2つの使い方としての用例は、1つ目は「彼は適宜な処置を講じた」「彼の発言は非常に適宜であった」であり、これは『他采取了适当的措施』、『他说的是非常适当的』と表現し、中国語では『适当』が使われます。2つ目の方は「本件は適宜見つくろってやって下さい」、「貴方のお好きな料理を適宜選んで下さい」や「我々は本件を適宜運用します」との場合に使われ、中国語で『请把这件事随便瞧着办吧』、『请随意挑选你喜欢的菜吧』、『我们把这件事要灵活地运用』と表現されており、夫々のケースによって『随便』『随意』『灵活』などが使われます。
一方中国語の『适宜』は、日本語の「ちょうどよい」や「程よい」との場合、並びに「適している」や「向いている」との場合の2つに使われます。用例として前者が『浓淡适宜』が「濃淡がちょうどよい」、『他的体格是胖痩适宜的』が「彼の体格は太り具合が程よい」であり、後者が『他适宜做销售工作』が「彼は営業の業務に向いている」、『你这种性格适宜搞外交工作』が「君の性格は外交関係の仕事に適している」となります。
「適宜」という言葉の字を分解すると、「適当で非常に宜しい」と「適当に宜しくやる」との2つの意味に理解され、日本語は「極めて適切である」と「随意に」とこの2つの意味に使われていますが、中国語では同じ意味合いながら、日本語で「ちょうどよい」や「適している」とちょっとニュアンスが違った使われ方をしています。
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日本語で「大方」には「たいほう」という読み方と「おおかた」という読み方がありますが、現在一般的に「たいほう」と読む使い方をしていません。「たいほう」と読んだ場合の意味は、「学問見識の高い人」とか「度量の大きいこと或いはそういう人」の意味であり、これは中国語と同じ意味です。
日本語の「大方(おおかた)」は「大部分」「多分」「多くの人」の3ッの意味があります。「大部分」の意味の用例は「出席した人の大方は学生だった」「大方の話はもう鈴木さんから聞いた」、「多分」の意味の用例は「彼は大方は来ないだろう」、「今夜は大方雨だろう」、そして「多くの人」の意味の用例は「大方の賛同が得られた」、「大方の考えがそちらに向いている」などです。
「大部分」の場合は中国語で『大部分』『大致』『大体』『基本上』『差不多』でで表現され、「出席した人の大方は学生だった(出席的大部分是学生了)」、「大方の話はもう鈴木さんから聞いた(大致的情況已经从鈴木先生听过了)」、「その件の大方の情況はもう分かっている(那件事的大体情況已经知道了)」、「仕事は大方終了した(工作基本上结束了)」、「用意した金は大方使ってしまった(准备的钱差不多花光了)」です。「多分」の場合は中国語で『大概』で表現され、「彼は大方来ないだろう(他大概不会来吧)」、「今夜は大方雨になるだろう(今晩大概下雨吧)」となります。そして「多くの人」の場合は中国語で『大家』『一般人』で表現され、「大方の賛同を得られた(得到了大家的賛同)」、「大方の考えがそちらに向いている(一般人的想法傾向那方面)」となります。
中国語の『大方』は(1)気前がいい、物惜しみしない、(2)ゆったりとしておおらかである、鷹揚である、(3)デザインや色が上品である、あかぬけしている、(4)世間の権威者、有識者の4ッの意味を持っています。
(1)気前がいい、物惜しみしないの用例は、『他很大方、不计较这几个钱(彼はたへん気前がよく、これ位の金にけちけちしない)』、『他花钱很大方(彼は金をとても気前よく使う)』で、(2)ゆったりとしておおらかである、鷹揚であるの用例は『你見了他尽可以大大方方的、用不着拘束(彼に会ったら出来るだけ鷹揚に構え、堅苦しくする必要はない)』、『这个人的举止大方(この人の物腰はがたいへんおおらかである)』、『衣服做得很大方(服がゆったりと作ってある)』です。(3)デザインや色が上品である、あかぬけいしているの用例は『这两种颜色配起来挺大方(この2ッの色の取り合せはとても品がよい)』、『房间布置得很大方(部屋の飾り付けがあかぬけしている)』です。(4)世間の権威者、有識者の用例は、『请求大方指教(有識者の教示を乞う)』、『大方之家(専門家)』、そして『贻笑大方』があり、これは学識や教養のある人に笑われること、即ち「識者に笑われる」との意味です。以上の中国語の意味をみると日本語の「大方(たいほう)」の意味とほとんど同じ範疇にあることが分かります。
なお中国語の『大方』は、お茶(安徽省歙県や浙江省淳安特産の緑茶)の銘柄にもなっています。
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日本語の「多少」は名詞として「多いことと少ないこと」「ちょっとした分量」に使われ、副詞として「いくらか」「幾分か」「少しは」に使われます。「名詞として「多いことと少ないこと」の用例は、「人数の多少により決定する」とか「経験の多少は問わない」とかで、「ちょっとした分量」の用例は、「多少の見込みはありますか」とか「その件について君は多少の責任がある」です。また副詞の「いくらか」「すこしは」の用例としては「希望は多少ある」、「今日は昨日より多少寒い」などです。
これを中国語で、「人数の多少により決定する」が『根据人数的多少来決定』、「経験の多少は問わない」が『不问经验的多少』或いは『不问经验的多寡』となり、「多少の見込みはありますか?」が『多少有些希望吗?』、「その件については君に多少の責任がある」が『在这件事上、你也有多少责任的』となります。副詞の用例は「希望は多少ある」が『多少有点儿希望』、「今日は昨日より多少寒い」が『今天比昨天多少有点儿冷』となります。この訳文をみると日本語の「多少」と中国語の『多少』が全く同様に使われていることが理解されます。
中国語の『多少』の使い方に日本語と差が生じるのは、中国語の『多少』に2ッの発音があるからです。『多少』を『一V』と一声・三声で発音すると日本語と全く同じ使い方をしますが、『多少』を『一・』と『少』を軽声で発音すると、数量の質問をする場合の「いくつ?」「どのくらい?」「どれだけ?」と、不定の数量を表す場合の「いくらか」「いくらでも」で使われます。
数量を質問する用例は『你要多少?(君はいくつ要りますか?)』、『你们学校一共有多少学生?(君たちの学校は全部でどのくらいの学生がいますか?)』、『我把这个药毎次吃多少?(私はこの薬を一度にどのくらい飲むのですか?)』などです。
この『多少』は大きな数量を質問する場合にも小さな数量を質問する場合にも使われますが、同じ数量を質問する言葉『几个?』は、『几千』『几万』という序数を除いて、10未満の小さい数量の場合にのみ使います。
一方不定な数量の用例は『有多少要多少(あるだけ欲しい)』、『用不了多少时间(たいした時間をとらない)』、『我知道多少说多少(私は知っているだけ話す)』『没有多少、就这一点儿(いくらもない、これだけだ)』、『有多少座位、卖多少比票(席に見合うだけの切符を売る)』などです。
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日本語の「達成」は「成し遂げること」や「目的を達して成功すること」を表現しています。このような場合に中国では『达到』『完成』『成就』という言葉を使って表現します。用例としては「生産目標を達成した」が『达到了生产指标』、「売上げ目標を達成しないと減給される」が『达不到销售指标、就会被減工资』、「この計画は達成しやすい」が『这个计划容易完成』、「任務を繰り上げて達成する」が『提前完成任务』、そして「彼は将来必ず大きな事業を達成すると確信する」が『我确信他将来必定成就很大的事业』、「彼は畢生の力を費やしてその大プロジェクトを達成した」が『他尽毕生的力量、成就了那个很大的項目」です。
一方中国語の『达成』はある結果を出す意味では同じですが、中国語の『达成』はAとB或いは複数の関係者が話合いを行って「意見の一致をみる」とか「取り決めを行う」場合に使われます。『达成了协议(協議が合意した)』、『达成了解(了解に達した)』、『达成合同(契約に至った)』として使われ、文章としては『日中双方就有关合资項目达成协议(日中双方が合弁プロジェクトに就いて合意に達した)』となります。
結果を出すとの意味では同じですが、使い方に違いがある点を説明しました。
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日本語の「一味」には「いちみ」と「ひとあじ」の2ッの読み方があり、その意味がそれぞれ異なります。広辞苑をみますと「一味(いちみ)」にはいろいろな意味がありますが、その中で現在我々が日常生活で使っているのは、(1)「一味の涼風」というように独特の味わいがあること、(2)味方をすることで、その仲間や同志、(3)七味とうがらしに対する一味のとうがらしの「一味」です。一方「一味(ひとあじ)」は「ちょっとした味」「微妙な味加減」という意味であり、一味(いちみ)の(4)「独特な味わい」はこれに含まれます。
「一味(いちみ)」の味方の仲間や同志を中国語では『同伙』『同党』で表現されます。日本語で「奴は泥棒の一味だ」、「密輸団の一味を手配中だ」、「彼は麻薬取引の一味だ」を中国語で『那家伙是小偸的同伙』『正在通缉走私犯的同伙』『他是贩毒同党』と表現されます。日本語で「一味」といった場合は、全て悪いことをする仲間や同志を意味していますが、中国語でも『同党』は徒党を組む仲間として悪い意味で使われることが多いそうです。
「ひとあじ」の「一味」は「ひと味」として表現します。用例として「このワインは普通のワインとひと味違う」、「この先生の講義は他の先生と比べひと味違う」、「同じ内容を喋っても、彼が話すとひと味違った面白みがある」などと使います。これを中国語で表現すると『这个葡萄酒和一般的葡萄酒口味不同』、『这位老師讲课比起別的老師来、确实有独到之处』、『同样的事让他白一讲、就比別人讲更有情趣』となります。
扨て中国語の『一味』は日本語の意味とは異なって「いちずに」「ひたすら」「どこまでも」の意味です。用例としては『一味地追求数量、不顾质量(いちずに数量だけを追い、質を顧みない)』、『他回家后一味念书、不到外边去玩儿(彼は家に帰ったらひたすら勉強をして、外へ行って遊ぼうとしない)』、『他一味支吾、老不肯办(彼はどこまでも言い逃ればかりして、何時までたってもやろうとしない)』です。
なお中国語の『一味』と日本語の「一味」に同じ使い方があり、漢方の品種の一品を指す場合です。『一味药(薬種の一品)』と表現し、これは「一味とうがらし」の「一味」と同じ使い方です。
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日本語の「作業」は「肉体や頭脳を働かせて仕事をすること」を意味しています。
「荷役作業」「流れ作業」「手作業」や「作業計画」などとして使い、文章としては「作業の能率が上がる(上がらない)」、「作業手順を考えてから仕事を開始する」や「辞書の編集は非常に手数のかかる作業だ」などとして使われています。
一方中国語の『作业』は日本語の3ッの意味をもっており、1ッ目は先生が生徒に課する「宿題」、2ッ目は軍隊に於ける訓練としての軍事活動で「軍事演習」、そして3ッ目が職場で製作や操作の仕事に限って使う「作業」です。従ってこの3ッ目のみが日本語の「作業」と同じに使われる次第です。
日本語の「作業」は中国語で同じ『作业』と併せ、『工作』『操作』や『劳动』などで表現されます。日本語と同じく中国語で『作业』が使われる用例は「流れ作業」が『流水作业』、「手作業」が『手工作业』、「作業計画」はそのまま『作业计划』と表現します。その他中国語で『作业』を使う用例は『分段作业(段階別に作業をする)』『带电作业(電線に電気が通っている状態での作業)』や『机械作业(機械を使っての作業)』などがあります。
『工作』『操作』『劳动』を使う用例は、「荷役作業」が『装卸工作』、「作業の能率が上がる(上がらない)」が『提高工作效率(工作效率上不去)』となります。
また「作業手順をよく考えてから仕事を開始する」が『充分考虑操作程序后、才开始工作』と訳され、「辞書の編集は非常に手数のかかる作業だ」が『编辑辞典是非常麻煩的工作』、そして「作業服」が『工作服」又は『劳动服』となります。
扨て中国語の独特の用途である「宿題」は『家庭作业(宿題)』、『做作业(宿題をする)』、『布置作业(宿題を出す)』、『『批改作业(宿題を添削する)』として使われ、「先生は殆ど毎日宿題を出す」が『老師几乎毎天布置家庭作业』となります。我々は日本語で「宿題」というと学校で先生から与えられた家に帰ってから行う勉強と理解していますが、中国語では家に帰ってからの宿題を敢えて『家庭作业』と表現しており、家に帰ってから行う宿題とその他の宿題を明確に区別しているようです。
なお「軍事演習」の『作业』の用例は『部队开到野地上去作业(部隊が野原へ行って軍事演習をする)』があります。
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日本語で「大手」には「おおて」という読み方と「おおで」という読み方があります。「おおで」と読む「大手」は肩から手先までを指し、小手(こて)に対照するもので、「小手」は肘と手首の間を指し、日本の剣道の「小手」とはこの場所を打つ技です。
「おおて」と発音した場合は、城の門(大手門)並びに「搦手(からめて)」の対称となる敵の正面を攻める軍勢をさしますが、我々が通常使用している「大手」は、「大手筋」の略です。この「おおて」の用例として、「大手筋、大手企業」を中国語で『大戸头、大企业、大公司、大厂商』などで表現します。「私鉄大手九社」が『九大私营铁路公司』、「この企業は業界最大手の会社である」が『这个公司是同业中最大的企业』と表現し、また「大手のにらみが効いているので市場が安定している」が『因为有了几戸大企业的控制、所以市场情況比较穏定』となります。
「おおで」と発音した場合の「大手」の用例としては、「大手を広げて迎える」が『张开双臂热烈欢迎』、「大手を広げて立ちはだかる」が『张开双臂当住去路』となります。なお中国語で『大揺大摆』とは「大威張りで歩く様子」を表しており、「大手を振って歩きまわる」は中国語で『大揺大摆地走来走去』と表現することが出来、また『大大方方』は「ゆったりした様子」を表しているので、「彼は大手を振って中に入っていって行った」を『他大大方方地走进去了』と表現出来ます。
中国語の『大手』は「大きな手」の意味しかありません。従って用例は『日本职业相扑家都有大手(日本の相撲取りは皆手が大きい)』や『冠军相扑力士用双大手抬起大杯来、一口气喝光了占满的喜酒(優勝力士が大きなもろ手で大杯を持ち上げ、一気に満杯の祝い酒を飲み干した)』です。
また中国語には『大手大脚』という四語成句があり、「金遣いが荒い、派手に金を浪費する」との意味です。気前よく、使うべき金を惜しみなく使う使い方と異なり、節度なくぱっぱと金を使う金遣いが荒い場合に使われます。中国語ではこの『大手』の方がよく使われている様で、用例としては『他花钱大手大脚(彼は金遣いが非常に荒い)』、『他这个人是大手大脚的、虽然賺钱不少、但一分钱也没存下(彼は金遣い荒い男で、収入は少なくないが一銭も残していない)』などです。
因みに冒頭に出た城の正門を意味する「大手」は中国語で『前门』又は『正门』であり、敵の正面を攻める軍隊を意味する「大手」は『正面进攻部队』又は『正面攻队部队隊』です。
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日本語の「得体」には「得体が知れない」との表現しかないようです。この意味はその本体や本性が分からないということですから、「得体」とは真の姿やその中身、即ちその本体或いはその本体が持つ真の考え或いは本当のことを意味しています。
「得体の知れない人」は中国語で『来路不明的人』或いは『来历不明的人』と表現され、「得体の知れない病気」は『莫明其妙的病』、また「馬だか何だか得体の知れない動物」は『似马非马不伦不类的动物』と表現出来ます。この『不伦不类』は得体の知れない、似ても似つかない、どっちつかずなどの意味を持っています。『这些比喩都是牽強附会不伦不类的東西』は「これらの比喩はみなこじつけのめちゃくちゃな得体の知れないものばかりだ」となります。
一方中国語の『得体』は日本語の「得体」と全く異なり、言動が適切妥当であり、身分や場所柄にふさわしいとの意味を持っています。用例として『他回答很得体(彼の回答はたいへん妥当である)』、『待人接物很得体(人や物事への接し方が非常に適切である)』、『他说的话很中肯、又很得体(彼の話はたいへん要領を得ており、また非常に場所柄をわきまえている)』、『他做事总是那么得体(彼のすることは何時も様になっている)』、『文章剪裁非常得体(文章の添削が非常に的を得ている)』などがあります。なお文中の『中肯』とは「話が急所をつく、要点をついている」との意味であり、また物理学の「臨界」の意味も持ち「臨界質量」を『中肯质量』といいます。今回は日本語の「得体」と中国語の『得体』では全く意味が異なっていることを理解して頂けたと思います。
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日本語の「発作」は病気が突発的に起こることで、広辞苑に「病状が急激に発し、比較的短い時間で去ること」と記載されています。従って「〜〜の発作が起こる」というように名詞として使われています。「咳の発作」が『咳嗽发作』、「心臓発作で亡くなる」が『因为心脏病发作而死』、「持病の発作が起きた」が『老病发作了』などです。なおこれが転じて突発的に起こることについて「発作的犯行」とか「発作的に笑いだした」と使われています。これを中国語では『突发性犯罪』とか『突然笑起来了』と表現しています。
一方中国語の『发作』は日本語と同じ意味の「病気の発作が起きる」との使い方と併せて「作用を起こす」との意味があり、全て動詞として使われています。病気の発作の用例は、「彼の喘息の発作がまた起きた」が『他的喘病又发作了』、「今朝私は胃病の発作を起こした」が『今天早晨我的胃病发作了』であり、作用を起こす用例としては、「たった今飲んだ2杯ばかりの酒がもう回った」が『刚才喝的仅仅两杯酒、现在发作了』、「私はビールならいくら飲んでも回らない」が『我喝啤酒、喝多少也不会发作』となります。
中国語の『发作』は「作用を起こす場合」の特別な使い方として、「怒りだす」とか「腹を立てる」場合にも使われています。『他虽在心里生气、但当着大家的面又不好发作了(彼は心中怒っていたが、皆の前で怒りだす訳に行かなかった)』とか『尽管你在心里有些不痛快、当着大家的面不应该发作(君は例え多少不愉快だったとしても、皆の前で怒りだしてはいけない)』などの用例です。一般的に怒ることを中国語で『发脾气』と言いますが『发作』とも言う次第です。なお『大发作歇斯底里(ヒステリ−の大発作を起こす)』との表現もありますが、このヒステリ−ことを中国語では『癔病』といいます。
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日本語の「新鮮」には「新しい」との観点でいろいろな使い方があります。食べるものが新しく生きがよい場合、空気などの回りの環境がきれいでさわやかな場合、そして気分や雰囲気などの抽象的なことを新しく感じる場合などに使われています。これらの「新鮮」は、中国語でも同じ『新鮮』が使われます。
食べるものが新しくて生きがよい場合の用例は「新鮮な果物」が『新鮮的水果』、「新鮮な野菜を仕入れた」が『采购了新鮮的蔬菜』、空気などの回りの環境がきれいでさわやかな場合の用例は、「新鮮な空気を吸う」が『呼吸新鮮的空气』、「新しい環境の中では全て新鮮に感じる」が『置身于新的环境中、什么都感到新鮮』、そして気分や雰囲気などの抽象的なことが新しく感じる場合の用例は、「新鮮な感覚の持ち主」が『具有新鮮感觉的人』、「新婚当時の新鮮な気持ちが戻った」が『又恢复了新婚时的新鮮感觉』などです。なお「新鮮な発想」の場合は『新鮮的想法』とも『新奇的想法』とも表現出来ます。
中国語の『新鮮』には日本語の「新鮮」と全く同じ使い方をすることと併せて、「珍しい、目新しく感じる」などの意味や、「趣向を変える、気分を新たにする」という意味があります。また変わった使い方として「とんでもない」とか「ある筈がない」という場合にこの『新鮮』を使います。この点が日本語と全く異なる点です。
珍しいとか目新しく感じる場合の用例は、『吃个新鮮(珍しいものを食べる)』、『新鮮事儿(目新しいこと)』、『三天半的新鮮(三日坊主)』、『那已经不算什么新鮮的東西啦(それはもう珍しいもののうちに入らないよ)』、『这种事、我不觉得新鮮(こんな事は、私には珍しいとは思えない)』などがあり、趣向を変えるとか、気分を新たにするとの場合の用例は、『找个新奇別致的地方新鮮(何か変わった事を探して趣向を変えよう)』や『偶尓穿西装新鮮吧(たまには洋服を着て気分を新たにししよう)』などです。
中国語の『新鮮』の特別な使い方として「とんでもない」とか「ある筈がない」という場合にこの『新鮮』を使っています。『你敢反抗老子?、新鮮(俺に反抗するって?、とんでもない)』とか『我给他道歉?、新鮮(私が彼に謝るの?、そんな馬鹿なことがあるか)』です。この場合の『老子』とは怒った時や冗談をいう場合に使う自分を指す言葉で、日本語でいうと「俺」「俺様」「我が輩」に該当します。
日本語で「新鮮な野菜」や「新鮮な気分」の使い方と比べると、中国語の『新鮮』は思いがけない使い方があり面白い次第です。
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日本語の「覚悟」は元来仏語で「迷いを去り道理を悟ること」を意味しているとのことです。日本語では「命をかける覚悟である」、「非難されるのは覚悟の上だ」、「心静かに死の覚悟をする」などの表現で使われます。これは表現を換えると「命をかける決心をする」、「非難される心の準備は出来ている」、「心静かに死を受け入れる準備をした」となります。
中国語の『觉悟』は日本語とは全く異なり「自覚する、認める、目覚める」との意味を持っています。中国語の『觉悟』の用例としては、『他觉悟到自己错了(彼は自分の誤りを認めた)』、『亲切地说服的结果、很顽固的他也逐漸地觉悟起来了(懇切に説き聞かせた結果、頑固な彼もだんだんと認め始めた)』、『我才能觉悟到问题的厳重性(私は問題の重大性をやっと認識することが出来た)』などです。また複合語の用例としては『阶级觉悟(階級意識)』や『政治觉悟(政治的自覚)』があります。
一方日本語の「覚悟」を中国語で表現する場合は、上記で表現を換えて説明をした形式で『決心』や『精神准备』を使います。「私には命をかける覚悟がある」が『我有豁出性命的決心』、「私が非難されるのは覚悟の上だ」が『我早已做好受批评的精神准备』、「私は心静かに死ぬ覚悟をしている」が『我平静地准备着死去』です。なお「何事が起ころうとも私の覚悟は出来ている」の文章は『无论发生什么事、我都做好了精神准备』でも『无论发生什么事、我的決心不会动揺』でも表現出来ます。また「決死の覚悟で臨む」と言う場合には『破釜沈舟』という四句成語があります。これは釜を壊し船を沈め決死の覚悟で戦いに臨むとの決意を示したものです。
なお『觉悟』を日本語で「目覚める」と理解した場合に、同じ意味を持つ中国語に『觉醒』があります。『觉悟』を使った「目覚める」との例が『经过多次的说服、他终于觉悟了(何回にも渉る説得で、彼は遂に目を覚ました)』であり、一方『觉醒』を使った「目覚める」との例が『促使了当局觉醒(当局に目を覚ますよう促した)』です。この二つの違いは『觉悟』は漸進的で目覚めるまでに一定の時間を必要とするのに対して、『觉醒』は突然に目覚めるのでもよく、また『觉悟』は個人に対して用いることが多いのですが、『觉醒』を個人に対して用いるのは非常にまれであるとの差があります。
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