| ■(第153回) 〔外地〕と〔外人〕 2012-01-17 |
日本語での「外地」は「外国」のことですが、中国語の『外地』は「自分の土地以外の土地」を意味し、「外国」のことを『外国』または『国外』と表現します。従って「外地に赴任する」が『到国外去赴任』、「外地勤務する」が『在国外工作」、「外地手当」が『国外津贴』となります。
「自分の土地以外の土地」とは「よその土地」或いは「よそ」の意味ですから、日本語で「私の子供はよそで働いています」との場合は、『我的孩子在外地工作』と表現し、「彼はよそから引っ越してきた人だ」は『他从外地搬来的人』と表現します。また「地方」という場合にも『外地』が使われ、「我々代表団は北京を三日間訪問してから、地方へ観光に行くことになっています」を『我们代表团将在北京访问三天、然后再到外地去游览』と表現します。
中国語で「外国」のことを日本語と同じく『海外』とも表現します。「海外華僑」はそのまま『海外华侨』であり、「海外の同胞」は『海外同胞』です。また昔は『海内豪杰(国内の豪傑)』のように『海内』という言葉が存在し、「海外」に対応した「国内」の意味でしたが、これは昔中国は四方を海に囲まれていたと考えれえていたことからの言葉であり、現在「国内」は『国内』と称しています。
さて同じことが日本語の「外人」にも当てはまります。日本語の「外人」は「外国人」のことですが、中国語の『外人』は「自分の土地以外の人」を意味しており、「外人」のことはフルに「外国」を使って『外国人』と表現しています。「外国人登記」は『外国人登记』、「外国人教師」は『外国人教師』または『外籍教師』です。また「選手」とか「記者」などの「人」に相当する言葉が後に付く場合は、『外国人选手』『外国人记者』ですが、『外国选手』『外国记者』でも問題ありません。なお「在日外人」は『侨居日本的外国人』との難しい表現をとります。
中国語の『外人』は「その土地以外の人」と同義語の「よその土地の人」から普遍して、「親戚や友人でない人」との意味から「よその人」や「他人」、「関係のない人」、そして「部外者」「局外者」などの幅広い意味を持っています。
用例としては、「他人ではあるまいし、遠慮しないで下さい」が『我不是外人、请不要客气』、「今日は知らない人はいません。皆私の友達です」が『今天没有外人、都是我的朋友』、「この事は外部の人に絶対知らせないで下さい」が『绝对別让外人知道这件事』、「話しなさいここは内輪の人ばかりですから」が『你说吧、这里没有外人』などです。
「対面」の日本語には、「顔を合わせる、面会する」ことと、「面と向かい合う」という2つの意味があります。「初対面」とは「初めて顔を合わせる」との意味であり、「対面交通」とは「一本の道路で向かい合ってすれ違う双方向の交通」との意味です。
「顔を合わせる、面会する」ことを中国語で『见面』『会面』で表現します。用例として「初対面」を中国語で『初次见面』『第一次见面、「彼ら兄弟は20年振りに対面することが出来た」が、『他们兄弟隔了20年、才能见了面』、そして「彼は初めて取引先の社長と対面した」が、『他第一次会見了顧客的总经理」となります。一方、「面と向かい合う」との場合は中国語でも同じ『对面』で表現します。この用例は、中国語の『对面』で挙げましょう。
中国語の『对面』は、「面と向かい合う」との意味と併せ、「真向かい、向こう、向こう側」などの意味があります。日本語の同じ意味を持つ「面と向かい合う」の用例は、「彼ら二人は対面して座っている」が『他们俩对面儿坐着』であり、「対面交通」は、中国語で『对面通行』或いは『双向通行』と表現します。
「このことは彼ら本人同士が対面して直接話し合わねばならない」との表現がありますが、日本語では「対面」より「面と向かって」との表現が普通であり、「このことは彼ら本人同士が面と向かって直接話し合わねばならない」となるでしょう。中国語では『这还得他们本人直接对面谈』となります。
「真向かい、向こう、向かい側」の用例としては、「彼の家は私の家の真向かいにある」が『他家就在我家的对面』、「向こうから李君が来る」が『对面来了小李』、「銀行は郵便局の向こう側にある」が『银行在邮局的对面』です。
「対面」という言葉は、日本語も中国語もほとんど同じですが、ちょっとしたニュアンスの差があるところが面白いと思います。
日本語の「看過」には、ある物事を、たいした事ではないとして「見逃すこと、大目に見ること」との意味と、ある物事を「見過ごすこと、見落とすこと」との意味の2つがあります。「見逃すこと、大目に見ること」の用例は、「納税者の一人として、このような無駄使いは看過することは出来ない」や「彼の過失を看過することは出来ない」であり、「見過ごすこと、見落とすこと」の用例は、「子供が禁止区域に入り込んだことを看過した」「その条項の重要性を看過した」などです。
「見逃す、大目に見る」の中国語には、『饶恕』や『不加追及』との表現であり、「見過ごす、見落とす」は、『忽视』『没看出来』『忽略过去』などの表現があります。「納税者の一人として、このような無駄使いを看過することは出来ない」は、『作为一个纳税人、我绝对不能饶恕这种浪费』、「彼の過失を看過することは出来ない」は『不得不加追及他的错误』となります。一方「子供が禁止区域に入り込んだことを過した」は『忽视一个小孩子进入了禁区了』となり、「その条項の重要性を看過した」が『我没看得出来那个条款的重要性了』となります。
一方中国語の『看过』はこれで単語とはならず、『動詞+过』の表現で、「動詞の意味が過ぎ去ったこと」を意味しており、『看+过』で「見たことがある」、「読んだことがある」の表現となります。「私は魯迅の“阿Q正伝”を読んだことがある」が『我看过了魯迅的“阿Q正伝”』であり、「手紙を読み終えると、彼は物思いにふけった」が『看过信、他陥入了沉思』となります。
なお中国の四字熟語として『熟视无賭』というのがあります。これは「よく見ていながら関心がないので目に入らない」との意味であり、日本語の「看過する」や「無視する」に当たります。用例としては、『因为随便破坏公物、乱扔垃圾的人太多、连公安也对此熟视无賭』があり、これは「気軽に公共物を壊したり、所かまわずゴミを捨てる人が多いので、公安もそれを見過ごしている」との意味になります。
「根本」は「ねもと」と「こんぽん」の2ッの発音があります。「ねもと」という場合は「草木の根」のことであり、「こんぽん」という場合は草木の根、特に大木を支える根から転じて「ある物事の大本を支える基本となるもの」を意味ます。
日本語の用例として、「あの二人の考え方は根本的に異なっている(那两个人的想法是根本不同的)」、「その件は根本的に考え直す必要がある(那件事有必要根本上重新考虑)」、「その理論は根本から誤っている(那个理论从根本上就错了)」などで、この場合は日本語も中国語も「根本」『根本』で同じです。
なお「根本的な」と形容詞句として使う「根本的な問題(根本性问题)」「根本的な原因(根本原因)」「根本的な原則(根本原则)」の場合も同じ範疇と言えます。然し副詞句として使う「根本的に」の場合は「根本的に改める(彻底改変)」や「根本的に調査する(彻底进行调査)」の如く『彻底』の方がよりよく日本語の意味を表現出来る次第です。
また基本的に同じ意味ですが、中国語で「大本を支える基本となるもの」を表現する際に『根源』『基础』で表現する場合があります。「根本に溯る(溯本求源)」、「健康は幸福の根本である(健康是幸福的根源)」、「根本が出来ていない(基础没打好、基础没扎实)」などがその例です。
扨て中国語で『根本』を使用する日本語と全く異なる点は、否定文に用いる「まったく、全然、初めから」との副詞句の場合です。用例としては『他根本没想过这个问题(彼はこの問題をまったく考えたことがなかった)』、『根本没有这样的事(そんな事は全然ない)』、『他根本不听了別人的劝告(彼は初めから他の人の忠告に対して聞く耳を持たなかった)』などです。
「人家」といったら日本語で「人が住む家」の意味しかありません。中国語でも同じ「人が住む家」との意味がありますが、これは昔の表現で現在では全く異なった使われ方をしています。唐の詩人:杜牧の『山行』の一節に『白云深处有人家(白雲深き処に人家あり)』がその例です。従って日本語の「人家」は昔中国から漢字を導入した時代の表現がそのまま残っている例の一つと言えます。
日本語の「人家」の用例としては、「その地方は人家がまばらだ」や「トラックが人家に突っ込んだ」を中国語で『那个地方人烟稀少』や『一辆卡车车进了民宅』で表現します。また「人家が密集している」は『住宅密集』と表現出来ます。
扨て中国の『人家』は人称代名詞或いは人称代名詞的な使い方であり、(1)他の人、よそさま、皆、他の皆様」、(2)彼、あの人、あの人達(特定な人を指す)、(3)親しい間柄での私、話し手、(4)他人の家、人のお宅、(5)嫁ぎ先など、
多岐に渉ります。
(1)の用例は『人家都能去、为什么我不能去(皆が行けるのに、どうして私が行けないのですか)』、『人家学得会的、我也一定学得会(よそさまが出来るなら、私も出来る筈だ)』、(2)の例は『別去打搅小李、人家明天要考试(李さんは明日試験があるから、邪魔をしてはいけませんよ)』、『人家有钱、咱不能跟人家比(あの人は金持ちだから、こちらとは比べものにならない)』、(3)の例は『你管自己的痛快、一点也不管人家(貴方は自分ばかり楽しんで、人のことなんかちっとも構ってくれない)』、『人家挺着急的、他倒好像没事似的(こちらは心配でいらいらしているのに、向こうはけろりとしている)』、(4)の例は『这是一戸勤倹人家(この家の人たちは皆勤勉である)』、『这戸人家有三个儿子(このお宅には3人の息子がいる)』、(5)她已经有人家了(彼女はもう嫁ぎ先が決まっている)』、『她已経三十、还没定了个人家(彼女はもう30なのに、まだ婚約もしていない)』などです。こんなに多岐に渉る使い方をする中国語も非常に面白いと思います。
「協調」の日本語は「利害の対立する者同士がおだやかに譲り合って相互間の問題解決を図る」ことを意味しており、一方中国語の『协调』「釣合いが取れている、バランスがよい、調和している」との意味で、全く使い方が異なっています。
日本語の用例としては、「労使双方が協調的な態度で話し合いをする」や「日中双方が協調してその問題を解決した」を中国語で『劳资双方以协商的态度进行讨论』、『中日双方把那个问题协商解決了』と「協調」に『协商』を使い、また「お互いに個人的な利害を捨てて協調する」、「この会社での労使協調は全く不可能である」を中国語で『互相抛弃个人的利害、进行合作』や『这个公司的劳资合作是完全不可能的』と「協調」に『合作』を使って表現します。
一方中国語の『协调』の用例としては、『这个国家的进出口不协调(この国の輸出入は釣合いが取れていない、バランスが取れていない)』、『工农业的发展必须互相协调(工農業の発展は相互にバランスが取れていなければならない)』、『体操运动员的动作是协调?美的(体操選手の動作はバランスが取れて優美である)』です。また『使我们的行动协调起来(我々の行動の歩調を合わせる)』の例のように「歩調が合う、歩調を合わせる」場合にも『协调』で表現することが出来ます。
「地盤」の日本語には、(1)地盤が固い、地盤が緩むという「地盤」、(2)建築物の基礎となる用地や敷地としての「地盤」、そして(3)選挙ややくざの縄張りとなる「地盤」の3ッの意味があります。
(1)の用例としては「この辺は地盤が緩いから地震の時は非常に危険だ」、「地盤が沈下したのて住民は学校へ避難している」があり、これを中国語では『这一带地基松软、地震的时候很危险』、『由于地壳下沉、周围的居民们都到附近的小学校去避难』と表現し、「地盤」を『地基』や『地壳』で表します。(2)の用例としては、「ここの地盤は固いから工場用地としては最適だ」、「雨は止んだが、まだ地盤は濡れてぬかっている」があり、中国語で『由于地基坚固、适于场地』、『雨停了、但地面还没干、是泥泞的』など、「地盤」を『地基』『地面』で表現します。なお「地盤沈下」は『地壳下沉』と併せて『地表下沉』と『地表』も使われます。
この様に(1)と(2)の場合の「地盤」を中国語では『地基』『地壳』『地皮』と表現しています。一方(3)の選挙の場合の「地盤」や中国の昔の軍閥や日本のやくざが持っている縄張り、即ち特定の人や団体が押さえている勢力範囲を表現する「地盤」のみに中国語では『地盘』を使います。
用例としては「彼は今回農村を地盤として立候補した」、「軍閥はお互いに縄張りを争う」を中国語で『他这次以农村为地盘参加了竞选』、『军阀们互相争夺地盘』などです。従ってやくざが「ここは俺のしまだ、さっさと出て行け」と言う場合も『这个地方是我的地盘儿、ー快滚出去』となります。
広辞苑で「錯誤」は「誤り、間違い」と「事実と観念が一致しないこと」の2ッが記載されています。然し現在日本では「錯誤」は「錯覚による誤り」との認識で「事実と観念が一致しない」との方のみが使われています。「誤り、間違い」は旧い文章
では使われていたとの説明であり、昔の文章では中国語の「誤り、間違い」と同じ使い方もしていたようです。
日本語の「錯誤」は、「そんなことを言うのは時代錯誤も甚だしい」とか「彼は試行錯誤を繰り返している」との場合に使われ、これは中国語で『那种说法太不符合现实了』や『他反复地进行着尝试和模索』と表現します。
一方中国語の『错误』は「誤り、間違い」や「過失、過ち」の意味を持っており、日本語の「錯覚による誤り」、即ち事実と観念或いは認識が一致しないことに使うことはありません。
「誤り、間違い」の用例としては『你不要那么坚持错误了(そんなに意固地になるなよ)』や『这种错误的论断、搞乱了不少人的思想(この様な間違った論断は、少
なからず人の考えを混乱させた)』であり、「過失、過ち」の用例は『他犯了严重的错误(彼は重大な過失を犯した)』、『他不改自己的错误、还要说別人不对(彼は自分の過ちを棚に上げて人のせいにしている)』などです。
「錯」という字は(1)「誤り、まちがい」と(2)「一致しない」の他に(3)「混じる、入り混じる」などいろいろな意味を持っています。(1)には「錯誤、錯謬、錯覚」などがあり、中国語の口語文や日本語の古文の「錯誤」はこの範疇です。
一方(2)の「錯誤」が日本語の一般的に使われる「錯誤」です。その他(3)には「錯綜、錯乱」などがあります。
「対象」は広辞苑に「意思などの意識作用が向けられる当のもの、物的、心的、実
在的、観念的なあらゆるものが対象となりうる」と定義されています。従って主体や主観の相手である客体や客観の全てを「対象」と表現することが出来ます。
何でこんな面倒な説明を最初に持ってきたかというと、中国語で「恋人」や「婚約者」のことを、即ち結婚を前提として付き合っている相手のことを、性別にかかわら
ず『対象』と表現しているからです。
従って「恋愛する」も『搞対象』と表現しており、『她是我的対象(彼女は私の
恋人です)』と言うように、現在の中国では「恋人」のことを『対象』と表現するのが当たり前になっています。広辞苑にある「対象」の定義を幅広く解釈すると、確か
に「恋人」は『対象』の範疇に入るのだなと思われてきます。
解放前の中国では親が決めた相手と結婚するのが常識であり、恋愛結婚は常識の範
疇にはなかったので、「恋人」のことを『情人』或いは『意中人』と表現していたようです。それが新しい中国になって結婚相手を自由意思で選べるようになり、恋を
した相手を「結婚を対象とした相手」とのことから、「恋人」のことを『対象』と表現するようになったものと思われます。
然しこれ以外の「対象」は日本語も中国語も全く同じであり、『发音是语言学的研究対象之一(発音は言語学の対象の一つである)や『这次精简对象是老弱病残(今回の人員整理は年より、弱いもの、病人、身障者を対象としたものである)』、そして
『这是面向女性的杂志(この本は女性を対象とした雑誌だ)』のように、同じ使い方をしています。
なお『找対象』が「結婚相手を探す」、『介绍対象』が「結婚相手を紹介する」の
ように、『搞対象』でない場合には、『対象』を日本語では「恋人」ではなく、「結婚相手」と表現することになります。
今回は「生気」です。日本語の「生気」は「生き生きとした気力、活力」を意味し
ています。この「生き生きとした気力」を中国語では『生气』又は『朝气』といいま
す。従って「生き生きとした気力」や「活力」の場合は、中国語も日本語と同じ表現
をします。
日本語の「生気」の用例は、「生気があふれる」や「生気はつらつとしている」が
『生气勃勃』或いは『朝气蓬勃』であり、「雨で植物が生気を取り戻した」が『下起
了雨、植物恢复了生气』です。なお「生気がない」は『没生气』や『没朝气』と表現
出来ますが、「生気のない顔つき」或いは「しょぼくれた顔つき」という場合には、
『毫无精神的相貌』或いは『无精打采的相貌』との表現があります。
なお中国語の『生气』には、「怒る」や「腹が立つ」との意味があります。用例と
しては、『我也不知道、为什么他生我的气(彼が何で私の事を怒っているのか、私に
も分からない)』、『你还生他的气吗?(君はまだ彼のことを怒っているのか)』、
『他是个好生气的(彼はかんしゃく持ちだ)』などです。この『气』には「怒り」や
「しゃくに触る」という気持ちがあるようで、『动真气』は「本気で怒る」であり、
『气坏了』が「しゃくに触ってたまらない」、『气疯了』が「しゃくに触って気が狂
った」との使われ方をしています。
『生气』と似た言葉として『生机』があります。『生机』にも『生气』と同じ「生
気」や「活力」の意味がありますが、『生机』の本来的な意味が「生きる機会、生き
る望み」なので、「生気を取り戻した」は『恢复了生气』と併せて『恢复了生机』と
の表現が出来、また「生気を与える」は『赋予生机』となります。
「親友」という言葉は日本語と中国語がどのような言葉を漢字2字に短めたのかの
面白い例です。日本語は「親しい友人」を短めて「親友」とし、中国語は『亲戚与友
人』を短めて『亲友』としました。中国語で友だちを『朋友』と言いますが、これは
話し言葉や通常の文章での表現で、かたい表現では『友人』といいます。
ただ日本語の「親友」は単なる親しい友だちと言うより、心を開いて親しい交わり
のある友だちを意味しており、広辞苑では「信頼が出来る親しい友」と表現していま
す。日本語で「親しい友人」という場合の中国語は『好朋友』又は『好友』であり、
「親友」という場合には『知心朋友』『知交』『最要好的朋友』との表現になるでし
ょう。なお「気が合った友人」や「気心の知れた友人」としては『执友』という表現
があります。
日本語の「親友」の用例としては、「我々二人は親友の間柄だ」が中国語で『我们
俩是知交关系』、「彼は私の無二の親友だ」が『他是我唯一的知心朋友』です。
中国語の『亲友』の用例は、『很多亲友参加了她的婚礼(たくさんの親戚と友人が
彼女の結婚式に参加した)』、『他这次回乡、会见了很多亲友(彼は今回故郷に戻っ
てたくさんの親戚や友人と会うことが出来た)』であり、また『他是我的执友』が
「彼は私の気心の知れた友だちです」となります。
なお『老朋友』という言葉がありますが、これは決して日本語の「親友」との意味
ではなく、日本語でいう「古い友だち」又は「長年の友人」という程度の意味です。
広辞苑を見るとこれは哲学語で「概念の内容が一つ一つはっきりしていなくても、それの対象を他の対象からはっきり区別するたけの明白さをもつ概念についての語」
とありますので、「明白」とは「疑う余地のない程はっきりしていること」を意味しています。
従ってこの点では日本語も中国語も全く同じであり、日本語で「明白である、明確
である、はっきりしている」との場合は、中国語でも『明白』を使います。用例としては、日本語の「彼は自分の希望を明白に話した」が『他明白说出自己的希望』であ
り、「先生は明確に説明しているのに、君はどうして分からないんだ」が『老師讲得很明白了、你怎么不懂』、「彼女は今日来ないとはっきり私に言った」が『她明白地告
诉我、今天不来』があります。
中国語の『明白』にはこれ以外に、(1)分かる、理解する、はっきり知る、並び
に(2)物分かりがいい、話が分かるとの意味があります。我々日本人にとっては、この(1)の「分かる、理解する、はっきり知る」が非常に身近な言葉で。用例とし
ては、『我的话、你明白了么?(私の話が分かったか?)』、『他嘴上不说、但在心里明白了(彼は口では言わないが、心の中で理解してくれた)』、『毎个人都必須明自己
的责任(各自が自分の責任をはっきり知らなければならない)』などです。
(2)の「物分かりがいい、話が分かる」の用例は『他是个明白人、请放心吧(彼
は物分かりがよいので、ご安心下さい)』、『他是个明白人、不用多说就知道(彼は話が分かる人なので、ちょっと説明すればよく分かる)』です。この『明白人』は、
日本語の「物分かりがよい人、話が分かる人、利口な人」に対応しています。
日本語の「利害」は「利益と損害」の意味で、「利害損得」又は「利害得失」とい
う表現がありますが、「利害得失」の方が中国語と同じ表現です。従って「利益と損害」との意味では日本語と中国語は同じです。
日本語の「両者の利害が一致する」が中国語で『双方的利害一致』であり、「我々は密接な利害関係がある」が『我们在切身的利害关系』、「利害にこだわる」が『计
较利害得失』となります。この場合の『利害』は両方の字とも四声で『\\』とはっ
きり発音しなければなりません。
さて中国語の『利害』にはこれとは別に(1)堪らない、ひどい、激しい、(2)
恐ろしい、怖い、すごみがある、そして名詞として(3)ひどい、手荒いの意味があ
ります。この場合の『利害』は『\・』と四声・軽声で発音し、『厉害』と全く同じ
使われ方をします。
(1)のケ−スは『動詞+得+利害』並びに『形容詞+得+利害』の形式をとり、
『这两天热得利害(この2・3日の暑さときたらひどいものだ)』、『头痛得很利害
(頭が痛くて堪らない)』となります。
(2)のケ−スは『那个人好利害啊(あの人は恐ろしい人だ)』、『他爸爸利害、
咱们不敢不听话(彼の親父は怖い人だから、私たちは彼の言うことを聞かない訳には
いかない)』、『这一着棋、十分利害(この一手は非常に厳しい)』などです。
(3)のケースの名詞の場合の用例は、『这家伙太狡猾、得给他利害(こいつはた
いへんずるがしこい奴だから、ひどい目に合わせてやらねばならない)』、『给你个利害看看(お前を痛い目に遭わせてやるぞ)』などです。
『利害』と『厉害』が同じ発音としても、全く同じ意味に使われるのは非常に面白
いところです。『害』を軽声で発音するところから、初めに発音ありきだったかも知
れません、
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