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▲「中国語で誤解しないように」バックナンバー(第81〜100回)
▲「中国語で誤解しないように」バックナンバー(第61 〜 80回)
▲「中国語で誤解しないように」バックナンバー(第41 〜 60回)
▲「中国語で誤解しないように」バックナンバー(第21 〜 40回)
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我々は良く「真面目」と言う言葉を使います。「彼はたいへん真面目に仕事をしている」とか「真面目に話をしましょう」と副詞的に使ったり、「これは真面目な話です」とか「彼は真面目な人です」と形容詞的に使ったりします。この日本語の「真面目」は「本気で嘘・偽りがない」ことを表現しており、一方中国語で「真面目」と言うと「ほうとうの姿」とのことで、日本語とは全く意味が異なってきます。
日本語の「真面目」を中国語では「認真」「真心誠意」「老実」或いは「正経」と表現します。従って上記の日本語は「他很認真地做工作」と「我們談一談正経的話・(ba:口偏に巴)」、そして「這是老実話」、「他是正経的人」となり、一般的に否定した場合を除いて非常に良い使われ方をします。
一方中国語の「真面目」は、「ほんとうの姿」の意味ですから、「隠されたほんとうの姿」或いは「正体」とのことで、悪い意味に使われる場合が一般的です。例えば「この事件は帝国主義の本体を暴露した(這件事暴露了帝国主義的真面目)」とか、「彼はついにありのままの姿をさらけ出してしまった(他終于露出了他的真面目)」と使われます。
さて日本語の方は、これを否定した形でいろいろと悪い表現があります。例を挙げますと「くそ真面目(死心眼、死認真)」「真面目くさった顔(仮装認真的様子)」「真面目くさって言う(仮装正経地説)」等です。
なお「真」を取り去った「面目」の方は日本語と中国語の意味は同じです。「顔」「体面」「本分、もちまえ」等で、「面目を施す(作臉)」「面目を一新する(面目煥然一新)」「自分の本分を守る(守自己的面目)」の表現があります。史記の項羽紀に、項羽が故郷を前にして死を覚悟した時に「我何面目見之(我何の面目あって之にまみえん)」と言ったと記しています。
「安心」と言う言葉は仕事でも良く使います。「契約条件通り船積をしていますからご安心下さい」とか「台風に遭いましたが、期日通り到着しますので安心して下さい」等です。日本語の「安心」は皆様良くご存知の通り「放心」です。従って上記は「按着合同条件正在進行装貨、請放心(ba:口偏に巴)」及び「雖(peng:石偏に並)到了台風、但按期到貨。請放心(ba:口偏に巴)。」となります。
問題は中国語で「安心」と書くと日本語ではどの様な意味になるかです。「心を安らかにする」と理解すると、これは「放心」と同じ意味と考えられますが、中国語で「安心して下さい」と話をする時には決して「安心」とは言わず「放心」との言葉を使います。さて「安心」とは「心を安らかにする」との意味で「落ち着く」とか「のんびりする」との意味があり、「安心工作(落ち着いて仕事をする)」とか、「安心養病(のんびり療養する)」との使い方をしています。
然し中国語の「安心」にはこれと併せて、「心の持ち方として、余り善くない考え方を抱く」とか、「故意に」又は「わざと」との使い方があります。「他安心不善、不可以相信」とは「彼は悪だくみがあるから、信用出来ない」、そして「安心坑人」とは「たくらんで人を陥れる」ことであり、「安心担擱着做工作」は「故意に遅らせて仕事をする」との表現になります。従って中国語で話をする場合に「安…心」を使うと悪い意味の表現と取られる可能性があります。中国語の「安心」にはこの様な日本語と全く違った意味が含まれていますので、使用には是非気をつけて下さい。
では、日本語の「放心」にはどの様な意味があるかと言うと、「放心状態」との語句からご理解頂ける様に、「突然の出来事の為に心を奪われぼんやりする状態」を表現するのが一般的です。この他に「心配することを止める」との意味もあり、これが、我々の使う「安心」、そして中国語の「放心」に繋がると考えます。
なお漢和辞典によると「放心」には「失われた良心」との意味もあります。孟子の中に「学問之道无他、求其放心而已矣」との言葉があり、「学問の道は他なし、その放心を求めるのみなり」とのことで、ここにその意味が使われています。
日本語で「器用」と言うと「手先の技が巧みな」との意味を表しています。然し中国語での「器用」は全く異なっており「有用な人物」と言う意味です。確かに器用な人は有用な人物ですが、中国語の場合の有用な人物とは「国家之器用」、即ち「国家の有用な人材」と言われるほど、手先の技では及びもつかない、所謂「大器」のことを指しています。また有用な人物として上司から重視される人物も「器用な人材」とされています。中国語の「器用」の意味にはマイナス面がないので、能力もなく胡麻すりだけで上司から重視されるような人材は「器用」とは言いません。
確かに中国語の「器」には「入れ物」「道具・器具」と併せて「才能・度量」と言う意味があり、そこから「有用な人物」との意味が出てきたのは理解出来ます。然し日本語の「器」にも同様な意味があり、度量の大きい人を「大器」と言うような人材を評価する表現はありますが、、何故日本語の「器用」には中国語と同じ「有用な人物」との意味がなく、「手先の技術が巧み」との意味になったのかは分りません。
なお日本語には褒め言葉とは言えませんが、「器用貧乏」との表現があり、これは何事も人並以上にはこなすが、大成出来ない人材のことを表現しています。この「器用貧乏を、中国語では何にでも通じている人との意味で「様様通」と訳したり、またシンガポ−ルの華僑:胡文虎が売り出して大金持ちとなった、塗れば何にでも利くと言う万能の油薬からもじって「万金油」と訳したりしています。
さて中国語の「器用」、即ち「手先の技術が巧み」なことを、中国語では「手功」「霊功」或いは「機霊」と表現しています。「器用な人」は「手功的人」、「器用な細工」は「精巧工芸品」です。
是非同じ「器用」でも、日本語の「器用貧乏」ではなく、中国語の「国家之器用」と言われる人材になって頂きたいと思っています。
「苦情」と言う言葉があります。日本語で「苦情」と言うと、「他人から害を受けている状態に於いて文句を言うこと」と「商売等で損害を受けた時に損害賠償を請求するクレ−ム」の2ッの情況を指しています。一方中国語にも「苦情」との言葉がありますが、これは日本語の「苦情」とは異なって、「苦しい情況、直面している困った立場」の意味です。「彼は言い出せない苦しさを隠している」を中国語訳した場合は「他内心隠藏着難言的苦情」となります。
日本語の他人から害を受けた場合の苦情を中国語では「不満」「不平」「牢騒」及び「抱怨」と言います。例えば「相手から苦情が出る(対方発出抱怨)(対方提出不満的意見)」とのことです。また商売等のクレ−ムの場合は「索賠」との言い、「クレームを申し立てる(請求索賠)(提出索賠的要求)」とか「クレ−ムの解決(解決索賠問題)」と表現します。日本の「消費者苦情センタ−」は「消費者投述中心」と呼ばれています。
日本語の「苦情」も中国語の「苦情」も悪い情況に在ることは変わりありません。然し日本語の方は「不平、不満を申し述べる」情況に在り、中国語の方は「困った立場」の情況に在るとの「苦情」の差をご理解頂ければと思います。
なお「苦情」とは「苦の情況」とも理解出来ます。日本語で「苦」と言うと「苦しい」と「苦い」の意味があります。一方中国語の方の表現は非常に広く、この「苦しむ」「苦い」の2ッの意味と併せて、更に「ひどい」「度が過ぎる」「極力」「一生懸命に」等の意味を持っています。「苦死(ひどく苦しむ)」「給銭給得太苦(お金のくれ方がひどい=けちである)」「苦勧(極力勧める)」「苦心人(たいへんな努力家)」「苦干(一生懸命に仕事をする)」等々です。この「苦」を使って「たいへんな努力家」とか「一生懸命に仕事をする」等の良い表現を作っている所が中国語の面白い所かも知れません。
日本語では「大丈夫」を「この建物は地震があっても大丈夫だ」とか「熱が下がったからもう大丈夫だ」と使っておます。然し中国語の「大丈夫」は「男の中の男」とか「これこそ男子」の意味で、日本語の使い方とは全く異なります。「這所房子即使有地震、也没関係」とか、「已経退了焼、不要緊了」と、「没関係」「不要緊」「没問題」等を使って日本語の「大丈夫」の意味を表現しています。
中国語に「大丈夫」と同じ意味で「好漢」との言葉があり、毛沢東は「不到長城、非好漢(長城に到らざれば、好漢にあらず)」と言う有名な言葉を残しています。
もちろん日本語にも「男の中の男」としての「大丈夫」と言う言葉がありますが、現在では「大丈夫たる者かくあるべし」と言うより「男一匹かくあるべし」との言い方が普遍的になっています。
中国には「男子漢大丈夫、敢做敢当(男一匹、やるからには思い切ってやり、潔く責任を執る)」との諺があり、また老子の中に「大丈夫処其厚、不居其薄、処其実、不居其華(大丈夫とは、その厚きに処して、その薄きに居らず、その実に処して、その華に居らず)」との言葉があります。「大丈夫たる者、その人と為りと処世は、純朴で人情に厚く誠実であらねばならず、決して軽佻浮薄で華美であってはならない」との意味で、この2ッの表現から中国の大丈夫を理解して頂けると思います。
では「大」の字を取り去った「丈夫」についての日本語と中国語の違いについて触れてみましょう。日本語で「丈夫」とは「丈夫な身体(病気のない健康な身体)」とか「丈夫な箱(頑強で壊れない箱)」の意味で使われます。一方中国語は「夫」と言う意味と併せて、「男子たる者、男らしさ」の意味があります。この様に「大丈夫」と同様に「丈夫」も日本語と中国語の意味は全く異なっており、非常に面白い次第です。皆様は「夫」の方は良くご存知なので、後者の「男子」の例として「丈夫做事不二過(男たる者、一度の過ちは恥にならず)」との諺を挙げておきます。
因みに「丈夫」の語源は中国古代の周の制度で、男子の背丈が一丈に達した時に成人男子と認められたことに由来しており、責任と自覚を以って行動が出来る一人前の男のことを意味しています。
そのまま使うと全く意味が違ってしまう中国語に「結束」と言う言葉があります。日本語の「結束」は「目的を同じくする者が団結する」との意味ですが、中国語の意味は「終わる、終わらせる、始末する」と、物事を終結させる場合に使われます。従って「私が最も関心を持っているのが会社の結束である」との日本語をそのまま「我最関心的是、公司的結束」と訳すと、中国語では「私が最も関心を持っているのは今後会社がどの様な終焉を迎えるかである」との意味となり、たいへんな誤解を招ねくことになります。日本語の「結束」を中国語では「kun(手偏に困)」、又は「団結」と言います。従って「我最関心的是、公司内部的団結」としないと意味が通じません。同じ「結び束ねる」とのことから、日本人は「まとまり、団結」とのことを考え、中国人は「これで終了」と考えた次第です。
以上の次第で「今天会議結束了」は今日の会議は終わったとのことであり、「結束は力である」を「結束就是力量」と訳すと「事を終わらせることが力である」と誤解される恐れがあり、「団結就是力量」が正しい中国語訳です。
なお「結束生命」との中国語は「命を断つ」との意味ですが、若し日本人がこの語句を見て「生命を結束させる」と理解すると、社員一同が「仕事に命をかける」とか或いはスポ−ツ試合で選手が「一致団結する」との意味を考えるかも知れません。
また面白いのは同じ「結」の字を使った言葉で「結構」と言う単語があります。日本語では「たいへん結構ですね」と中国語での「非常好!」の意味ですが、中国語は全く異なって「文章などの構成」とか「建築物の構造」の場合に使われます。なお漢和辞典を見ると「結構」の説明として、「りっぱなこと、すぐれたこと」よりも前に「組み立てる」「構造」の説明が出ていますが、現在では「構成」とか「構造」の使用が普遍化して、その意味での「結構」は全く使われていません。
日本語で「今日は急用があるので失礼します」の「急用」をそのまま使って、「今天有急用、請允許我告辞」と言うと、中国人は「何か急ぎなお金か物の必要があるのだな」と理解して、お金や物を出して援助することまで考えてしまいます。
どこからこの間違いが来るかと言うと、日本語と中国語では「用」の使い方が異なる点にあります。「用いる」とか「使う」との点は両国語とも同じですが、日本語の「用」は用事(急用、用件)、働き(効用)、或いは特別な用途としてトイレに行く等に使われます。一方中国語は「使う」との意味と併せて、「何かを必要とする」とか「費用」として用いられます。従って中国語の「急用」は、差し迫って必要とする費用のことで、「今天有急用」と言われると「急にお金が必要になったのだな」と思われてしまう次第です。なお中国語では「食事をする(用餐)」とも使われます。
日本語の「急用」は中国語で「急事」或いは「要緊事」と表現します。「今日急用があるので」は「今天有事」と表現します。一刻を争う急用は「刻不容緩的急事」、急用で北京へ行くは「有急事、到北京去」、また急用を済ませてから貴方に電話をするは、「先辧完這件急事后、打電話給Ni(人編に爾)」と表現します。
なお同じ言い方で意味が異なる「用」の使い方としては「用意」があります。日本語では「準備する」との意味ですが、中国語は「意図、ねらい、心づかい、気をつける」等の意味で、全く異っています。例えば「私は明日の旅行の用意をする」は「我為了明天的旅游要準備」であり、「彼のねらいは何処にあるのか」は「他的用意何在」となります。「用意」は同じ「意を用いる」とのことですが、日本語は事前の準備の方に意を用いており、中国語はねらった目的の為に意を用いています。
我々は交渉の際に「当面は静観します」「当面その方針に変りはありません」と良く「当面」と言う言葉を使います。また「当面の問題は何とか処理出来ます」との使い方もあります。前者は「さし当って」とのことで、交渉事で先方から何か前向きな提案があった際に現状維持を表現する際に使われ、後者は「現在直面している情況」を指しています。
一方中国語の「当面」の意味は「面と向かって」とか「直かに」「直接」との意味であり、日本語の「さし当って」とか「直面している」との意味は全くありません。
日本語の「当面」は中国語で「目前」「当前」「面臨」と言っており、「目前静観這个情況」「当前没改変那个方針」「目前的問題還可以処理」となります。
中国語の「当」には一声と四声があり、「当面」は一声です。「当面不説、背后乱説(面と向かって何も言わず、陰であれこれ言う)」や「当面講意見(直かに意見を言う)」等の使い方をします。一声の「当」は「当る」「担当する」の意味で、日本語との同形同義語が多く、「当初」「当地」「当然」「当夜・当晩」等々全く同じ使い方をしています。
面白いのは四声の「当」で、我々が一般的に使っている「見做す」或いは「〜とする」との意味の「当做」です。その他の四声の「当」としては、「質に入れる」とか「だまされる」との意味があり、昔中国の質屋(現在では質屋と言うものがあるかどうか分りませんが)の看板は「當」と大きく書かれていました。「当舗(質屋)」の関係では「当借(質に入れる)」「当票(質札)」や「当頭(質ぐさ)」「当死(質流れ)」等があり、また「だまされる」との意味では、「上了当(だまされた)」とか「別上了他的当(彼にだまされるな)」の表現があります。今回は我々が普段良く使う「当面」の言葉から、中国語の「当」と日本語の「当」の使い方の違いについて述べてみました。
中国語の「無心」は簡体字では「无心」と書きます。「无」は日本語の漢字の中にもあり、「無」の古字で「無」と全く同じ字と理解して下さい。日本語の「無心」は無心な子供とか、無心に絵を画くとか、金を無心すると使うように「無邪気な様子」や「一生懸命に何かをやっている」、或いは「人にお金やものをねだる」との意味に使われ、中国語では「天真爛漫的小孩子(無心な子供)」「専心致志地画画儿(無心に絵を画く)」「向父親討銭(父親に金をねだる)」と表現します。
さて中国語の「无心」は、日本語のやる気がない、やる気になれない、何の考えもないとの意味であり、「他无心」と言うと「あの人は物事に対して深く考えずに行動する」との場合に使われ、けなす意味は全くありません。「无心无意」と言う中国語は全く誠意がないとの意味であると共に、全く悪意がないとの意味でもあります。従って「他无心接待客人」と言った場合、日本語の「無心」から「彼は一生懸命お客様を接待している」と理解されますが、中国語の意味は「彼はお客様を接待する気がない」と全く反対の意味となり、また「這是我无心的話、別介意」と言えば、「これは私が何気なく話したことなので、気にかけないで下さい」との意味です。
元来「無心」は仏教語から来ており、妄念を離れた心の状態、所謂「無念無想」の状態を指しています。分りやすく言えば「自然体」のことであり、現在日中関係でいろいろなことが言われていますが、我々は何も先入観を持つことなく、自然体で中国の人々と付き合って行くことが肝要と考える次第です。
「手」と言う日本語は非常に広い範囲で使われています。その内の幾つかはそのまま中国語として通用しており、例えば「手段」「「手術」「手続」「助手」等があります。然し日中両国語の意味の違いがたくさん多く存在しており、一番皆様の話題に上るのは「手紙」で、ご存知の通り中国語では「落し紙」、即ちトイレットペ−パ−のことです。日本語の手紙は中国語で「信」と言います。
日本語の「手短か」は話の進め方を手っとり早くすることで、中国語では「簡単」で表現し、手短かに説明することを「簡単地説明」と言いますす。一方中国語の「手短」には「手が短い」と言う意味と共に「頭が上がらない」の意味があります。「吃人家的嘴短、拿人家的手短」とは「人から食べさせてもらったり、人から物をもらったりすると頭が上がらない」とのことであり、また「我在他手里有短(私は彼には借りがある)」との使い方もします。
「手短」の反対の「手長」には、「手が長い」と言う意味のほかに「コネが多い」との意味があり、コネとか人脈を重視する中国では「手長」は、あの人は立派で良い人脈を持っているとの、良い意味で使われています。
「手」にはまだまだいろいろとあります。日本語の手勢を持つの「手勢」は自分が指揮する勢力や手駒の意味ですが、中国語では「手の動かし具合」のことを意味しており、「做手勢」と言うと「手まねをする」「ふりをする」の意味です。「手慰み」はその使い方で中国語では「玩弄(遊ぶ)」や「消遣(気晴らしをする)」、そして「賭銭(博打をする)」等の表現があり。また「手直し」を中国語の「手直」とすると「手が真っ直ぐである」との意味しかなく、日本語では「修改」とか「加以修正」との表現になります。いずれにしても日本語と同じ意味はどの言葉であるか、どれをそのまま使ったら意味が通じないのかを良く識っておく必要があります。
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中国語の「小王自覚理屈」と言う文章をそのまま「王君は理屈を自覚した」と訳すと全く意味が通じません。中国語の「理屈」は「理が屈する」とのことで「理由が立たない」「道理が間違っている」との意味です。従って正しい邦訳は「王君は理由が立たないことを自覚した」、即ち「王君は自分の理屈が通らないと気が付いた」となります。
日本語の物事の筋道、こじつけの理由、現実を無視した理由付け等を意味する「理屈」に該当する中国語は「道理」「理由」や「借口」「歪理」等があります。「借口」は口実にするとのことで、「歪理」は道理を歪曲することから来ています。例文としては「そんな理屈はない」(豈有此理)、「理屈を言えばきりがない」(歪理講起来没完)、「ごもっともです」(有道理)等があります。また中国では口喧嘩をしている二人を見ていて、その理由が間違っている方に対して
「他理屈」(彼に道理がない)と批評するそうです。
日本語の「理屈」は一つの言葉ですが、中国語の方は「理に屈する」と述語になっている点に注意して下さい。
「彼はいろいろと工夫をして、ついに成功を収めた」との文章を「工夫」をそのまま使って中国語に訳した場合、中国人は「彼は一生懸命に腕を磨いて、ついに成功したのであろう」と思うでしょう。何故なら中国語の「工夫」には「時間」や「暇」との意味と併せて「(研究・修行の結果による)年期が入った腕前とか造詣」との意味があるからです。
一方日本語の「工夫」とはあれこれといろいろ考えて良い結果を得ようとすることや、その考えついたうまい方法そのもののことを意味しています。
従って「今天下午有些工夫」(今日午後にちょっと暇があります)とか「対漢詩工夫很深」(漢詩に対する造詣が深い)」、「這个工作很費工夫」(この仕事はたいへん手間がかかる)等の使い方をします。
日本語の「工夫」「工夫をする」は中国語で「設法」「開動脳筋」或いは「動脳筋」と言い、冒頭の文章は「他×命地動脳筋、終于取得了成功」となるでしょう。
中国側と合弁に於いて契約条件を話合ってもなかなか纏まらないため、「合弁条件に付いて私はもう一度検討しなければならないと考えています」と言う日本語を「就有関合資条件、我想還得再検討一次」と訳すると、聞いた方の中国側は「(申し訳ありませんでした)合弁条件について、私はもう一度反省しなければいけないと思っています」と謝られたと理解してしまいます。非常に厳しい合弁契約条件の交渉をしている最中に、日本側からこのように謝られたら、中国側はそれ見ろとのことで強硬に自分の条件を押しつけてくるでしょう。
日本語の「検討」に該当する中国語は、「研究」「探討」「商討」等があります。従って正しい訳文は「就有関合資条件、我想還得再研究一次」となります。
中国語の「検討」は反省するとか自己批判をするとの意味があり、自己批判書や反省書を中国語で「検討書」と言います。中国で文化大革命の時代には一般大衆の面前で自己批判(自我検討)を強制されたり、自己批判書(検討書)を書かされた人が多く出たと言われています。
中国へ行くと「進出口公司」と言う公司とのお付合いが多くあります。この時の「進出口」は進口(輸入)と出口(輸出)の合成語で「輸出入」の意味です。中国ビジネスではこの進出口と併せて、日本語で「企業進出」と言う言葉が良く使われています。
この「進出」と言う言葉も同形異義語で、中国語では単に「出入り」と言う意味だけですが、日本語の方は「前に進み出る」との意味はありますが、「入る」との意味が全くなく、更に勢力を伸長すためや新分野を開拓するために乗り出すとの前向きに出かけるとの意味を持っています。
従って「日本企業が中国へ進出する」との日本語をそのまま「進出」を使って「日本企業進出中国」と訳すと「日本企業は中国を出入りしている」となってしまい全く意味が通じません。この場合は「日本企業打入中国」と訳します。日本語の「進出」の中国語訳は「打入」「進入」「打進」等が良いでしょう。同じく「从這个門口進出」(この門から出入りする)の意味で「この門から進出する」との意味はなく、出たり入ったりとの両方が含まれていることを注意して下さい。
日本語で「請求する」と言うと、当然の権利として要求するとの意味で使用されていますが、中国語の「請求」は日本語で「何とかお願いします」と相手に何かものを頼む場合に使用します。従って日本語の「請求書」と言う文字を見た場合に、中国人はいろいろなお願いをする「要望書」と理解してしまいます。
日本語の「請求書」のことを中国語では「帳単」とか「付款通知単」と言っており、また「請求権」は「索取権」と、そして領収書のことは「収据」と言っていました。
現在中国では領収書を下さいと言う時に「発票」と言っています。元来「発票」は「発貨票」(インボイス=積荷明細書)の略で、取引に於ける請求明細書を意味するものでした。中国では現在公給領収書(財務局が一連番号で発行する公的領収書)方式を採用しており、税務署は帳簿の憑証としてこの「発票」以外は領収書として認めてくれません。この公給領収書は請求書と領収書がセットされており、一緒に書かれます。レストランから領収書を貰う際に従来は「算帳」とか「結帳」と言って、領収書を貰っていましたが、現在は「発票」と言う様になり変わり、それが恰も「領収書」を下さいと使われるようになった次第です。
前回日本語の「火車」のお話をしました。広辞苑で「火の車」を見ますと「地獄にあると言われている火の燃えている車、獄卒が罪ある死者を地獄に送ると言う」と説明されていました。
「火」の意味は日本語も中国語も同じで、火事が起こる(発生火災)、火が燃える(火燃焼)、彼は火のように怒る(他大発雷霆)等の表現があります。
中国語にはいろいろな形で「火」と言う字を使用しており、現在新しい「火」の使い方も出てきています。かっとするとか頭にくると言う時に「冒火」と言い、発砲するは鉄砲が火を吹くとのことから「開火」です。また料理で「大火」と言うと強火を意味し、また漢方医が脈をとって「火大」と言うとのぼせているとのことを意味しています。
新しい使い方としては絶好調と言う場合に「火」が使われており、この商品の売れ行きが絶好調であると言う場合に「這个商品賣得最火的」と使い、また商売が繁盛していると場合にも、あのレストランは非常に人気がある「那个餐庁特火」と言う表現をして「火」を使っています。
中国語では自動車のことを「汽車」と言います。タクシ−のことは「出租汽車」、そして料金を払って乗る路線バスを「公共汽車」、バスの停留所を「汽車站」と言います。一般のバスは何と言っているかというと、大型バスが「大巴」或は「大客車」、小型バスの事を「中巴」或は「小客車」と言います。面白いのは荷物が後ろに入れられるバンのことで、中国語でパンのことを「面包」と言いますが、車のバンがこの食パンのブロックに似ていることから連想して「面包車」と言います。なお自動車を汽車と言うのは、ガソリン(汽油)を燃料として走っているからです。
路面電車のことは「電車」或いは「有軌電車」で、面白いのは日本語のトロリ−バスで、これも電気で動くので「電車」又は「無軌電車」と言っています。
同じ理由で汽車のことを蒸気機関車が火を焚いて走るので中国語では「火車」と言います。今ではディ−ゼルエンジンで走る汽車も存在しますが、それも纏めて「火車」と言っています。この点は日本で遠距離列車を汽車と言っているのと同じかも知れません。なお日本語の汽車の語源は蒸気で走るからとのことは皆様もご存じの通りです。
日本語にも「火車」があり、これは経済状態が非常に悪いことを表現する「火の車」ですが、この語源は地獄にある死者を地獄に運ぶ為の「火の燃えている車」です。
前回「油断一秒・怪我一生」で、中国語で油断すると言う表現は「大意」であると説明しました。日本語の「大意」には「この文章の大意は……です」と文章のあら筋の意味しかありません。中国語では「概要」「大意」と「大意」もあら筋として使われますが、それ以外に日本語の「いいかげん」や「注意が足りない」と併せて「うっかりする」「油断する」との意味があります。日本語で「油断大敵」との言葉がありますが、これは中国語では「粗心大意害死人」となります。
仕事の際に良く使われる中国語として、「Ni不要大意」(「あなた」を意味する「ニィ」は日本語に無い漢字なのでNiとローマ字表記しています)がありますが、これは「油断をしてはいけません」とか「ちゃんと注意してやりなさい」との意味であり、また「千万不能大意」と言う言葉もあり、これは「絶対に油断をしてはいけません」とか「絶対にミスをしない様に」と念を押す場合に使われます。
なお日本語の「油断」は不注意であること意味ですから、中国語では「大意」と併せて「粗心大意」「麻痺大意」「疎忽大意」と表現し、また当然「不注意」も使われます。
| ■(第2回) 〔油断一秒・怪我一生〕 2005-3-1 |
ある見慣れた完全な日本語の文章の意味する所を、中国の人が見ると全く異なる意味となるケ−スがあります。その一つとして「油断一秒・怪我一生」と言う標語があります。
中国の訪日代表団が日本の工場を参観して、工場内で「油断一秒・怪我一生」と言う標語を見ると日本の工場では工員に対して非常に厳しい要求を出しているとたいへん驚くでしょう。
中国語で「油断」と書くと中国人には「油を断つ」、即ち「油を止める」とか「油を切らす」としか理解出来ません。日本語の「油断する」は中国語で「大意」「粗心大意」等の表現があり、また「怪我」や「怪我する」との中国語は「傷」及び「受傷」です。
一方「怪」には動詞として「怪しむ」との意味と共に「咎める」とか「悪く思う」との意味があります。
以上を綜合すると「油断一秒・怪我一生」は「油を一秒断ったら、私のことを一生咎めなさい」、即ち「若し私が油を一秒止めたら、私のことを一生責めて下さい」との意味になり、全く違った意味となってしまう次第です。なお「油断一秒・怪我一生」は標語的に中国語で言うと「大意招来一生大傷」となるでしょう。
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「英語は苦手だけど、中国語は同じ漢字なのでみれば何とか理解できる」と考えておられる人が多いようです。確かに中国語のことを中国語では「中国話」と言い、見ただけで何となく分かります。これは同じ漢字を言葉の中に使用しているからで、古代字を持たなかった日本語を漢字を使って文書としたなごりです。古い文書として古事記や日本書紀が書かれた時代のことです。その頃からの時代の変化があり、言葉の使い方もだいぶ変わってきたようで、中国語と日本語の間に「同形同義語」と「同形異義語」が発生してしまいました。
一つの例として「私は貴方を告訴します」を中国語にそのまま「我告訴Ni」(「あなた」を意味する「ニィ」は日本語に無い漢字なのでローマ字表記しています)と訳してしまうと、これは「貴方に伝えます」との意味になることは皆様ご承知のとおりです。
「中国語で誤解をしないように」のコラムでは、このような用例をビジネスに関連付けて取り上げます。中国への進出をお考えの中小企業の方々にもぜひ参考としていただければ幸いです。
なお、ご参考までに申しますと、言語学的に日本語は蒙古語や朝鮮語と同じ「ウラルアルタイ語系」に属しておりますが、一方中国語は「中国語系」であり全く別な系統のものであります。
本コラムを連載するに当たりましては、光生館「日中同形異義語300」や週刊「中国巨龍」の記事を参考とさせていただいておりますことを付記いたします。
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