このサイトは、ご覧いただいている皆様の声で育っていきます。 情報をお寄せ下さい。
困ったなあ | 先輩、教えて | 中国語 | 中国税務教室 | 法令トピックス | メール相談室 | リンク | PRの広場



▲「中国語で誤解しないように」バックナンバー(第81〜100回)
▲「中国語で誤解しないように」バックナンバー(第61 〜 80回)
▲「中国語で誤解しないように」バックナンバー(第21 〜 40回)
▲「中国語で誤解しないように」バックナンバー(第01 〜 20回)


 

■(第60回) 〔掃除〕 2006-8-1

 今回は非常に簡単な「掃除」という言葉です。通常日本語の「掃除」には「ごみや埃を取り除いてきれいにする」との意味にしか使いません。用例としては「部屋を掃除する(打掃房間)」、「庭を掃除する(打掃院子)」です。また最近はなくなりましたが、昔は子供に対してよく「虫下しでお腹を掃除しましょう(用打虫葯把肚子里打浄一下!)」と言っていたことがあります。

 中国語にも日本語と同じ「ごみや埃を取り除いてきれいにする」との「掃除」という語彙がありますが、これは「部屋の内外は毎日掃除しなければならない(房間内外需天天掃除)」とか「大掃除(大掃除)又は(大清掃)」です。中国語の「掃除」は他動詞として使えませんので、他動詞としての「掃除」には「打掃」を使います。

 中国語の「掃除」を他動詞として使うと、「除く、一掃する」との意味と「粛清する、追放する」との意味があり、日本語の「掃除する」には「打掃」が使われますので、一般的にこの用途の方が広く使われています。「除く、一掃する」としての用例は、「掃除天下(天下を平定する)」、「掃除障碍(障害を一掃する)」、「掃除文盲(文盲をなくする)」等です。

 「粛清する、追放する」の用例は、「掃除反革命分子的問題(反革命分子を粛清する問題)」、「掃除反対派議員(反対派議員を追放する)」、「四面賊匪一律掃除(四方の匪賊をいっせいに掃討する)等です。この場合に「掃除」の代わりに「粛清」を使っても意味は変わりません。

 なお日本語の「電気掃除機」を中国語では「電気吸塵器」といいます。今回は日本語の「掃除する」という言葉を、中国語で他動詞として使うと全く異なった用途となってしまうとの説明でした。然し日本語でもあるグループや組織の中で、その中に存在する不良分子に対して「あんな奴等を掃除してきれいにしなければならない!」との使い方もあることを認識する必要があります。

▲トップ


 

■(第59回) 〔左右〕 2006-7-26

 「左右」という言葉は第53回にお話をした「東西」と似たような言葉です。ただ中国語の「東西」は幅広い意味を持っていましたが、日本語は「東と西」以外に余り意味するものはありませんでした。今回の「左右」は中国語のみならず日本語もいろいろと意味を持っており、中国語と日本語が共通する点が多くあるのが特長です。

 日本語の「左右」には、「左と右」との意味と併せて、「そば、身の回りの物や部下」、「支配する、思うままにする」、「自分の意思をはっきり言わず曖昧な態度をとる」等の意味があります。またこれは日本語のみの表現ですが、「よい知らせ」という意味の「吉左右」があり、これは「きっそう」と発音します。

 日本語の用例としては、「左と右」は「道路の左右に柳の木が植わっている(道路両旁裁着柳樹)」や「左右相称/シンメトリ−(左右対称)」があり、「そば、身の回り」は「自分の左右を片付ける(収拾自己的身辺)」や「万一に備えて自分の左右に置いておく(防備万一、放在自己的身辺)があります。「支配する、思うままにする」は「感情に左右される(受感情的影響)」、「運命は人間の意思によって左右出来ない(命運不能以人們的意思為轉移的)」や「運命を左右する大事件(左右命運的大事件)があり、また「自分の意思をはっきり言わず曖昧な態度をとる」との表現には「言を左右にする(左右其詞)又は(支吾唐塞)」があります。

 中国語の「左右」には「吉左右」を除いて上記の日本語の意味が全てあります。例えば「左右逢源(随所に源を得る→手近かなものが学問・修養の源泉となる、事が皆順調に行く)」、「左右為難(板挟みになる、ジレンマになる)」との用例があり、「左右の部下」としては、史記の項羽記の垓下で劉邦に負けた場面で「左右皆泣、莫能仰視(左右皆泣き、能く仰ぎ視るもの莫し)」と記されています。

 日本語にはない中国語独自の使い方として、「ぐらい、ほど」の意味の「三十歳左右(30歳ぐらい)」や「三点鐘左右(3時ぐらい)」並びに「どうせ、いずれにしても」の意味の「我左右閑着无事(私はいずれにしてもする事がなく暇だ)」や「左右是這様(いずれにしてもこんな具合です)」の表現があります。

 なお中国語には「左〜右〜」との用法で「@ あちらもこちらも、A どっちにしても、B あれこれ」との表現があり、用例として、@が「左来右来、老没完(あちらからもこちらからも来て、きりがない)」、「左求右告(あちらにもこちらにも頼む)」、Aが「左也吃虧、右也吃虧(どっちにしても損をする)」、Bが「左思右想(あれこれと思いめぐらす)」、「左支右支(あれこれ言い抜ける、あれこれとごまかす)」と使います。

 言葉として左と右の「左右」ですが、中国語には日本語と比べより多くの用法がある次第です。

▲トップ


 

■(第58回) 〔心中〕 2006-7-19

 日本語で「心中」と書いた場合に「しんちゅう」と発音する場合と「しんじゅう」と発音する場合があります。「しんちゅう」は「心の中」との意味ですが、「しんじゅう」と発音する「心中」にはいろいろな意味があります。通常「しんじゅう」というと「相愛の男女が一緒に自殺する」と理解されていますが、それから転じて「親子心中」というように二人以上の人が共に死ぬことを表すと共に、「会社と心中する」とのように、「打ち込んでいる仕事や組織と運命を共にすること」や「彼に心中建てをする」のように「人に対して義理を立てる、約束を守る」との意味があります。

 一方中国語の「心中」には日本語の「しんちゅう」である「心の中」とか「胸のうち」との文字通りの意味しかありません。

 「しんちゅう」の中国語の用例としては、「心中」がそのまま使われる「心中密かに思う(心中暗想)」や「胸がどきどきする(心中)」があります。この「」は日本語で「こん」と発音し、「」は日本語で「とく」と発音します。「こん・とく」2字で熟語を形成し「ねんごろ」とか「心の定まらない」ことを意味しています。

 また「心中有数」との言葉があり、これは「心ではよく分かっていること、心に思惑や打算がある」との意味で「胸中有数」とも書きます。用例として「唖吃扁食、心中有数(おしが餃子を食べている、幾つ食べたか良く心得ている)」や「他雖然不公然反対、心中有数(彼は公然とは反対しないが、胸の中には思惑がある)」との意味です。「口には出さないが心の中では良く分かっている」との場合に使われます。

 この反対が「心中无数」又は「胸中无数」で、「問題や事情が良く分かっていない、自信がない」との意味です。

 また「心中」の代わりに「心里」その他の表現を使う例があり、「彼は心中に確信を持っている(他心里有確信)」、「彼の心中は察するに余りがある(他的心情是可想而知的)」、「心中穏やかでない(心情不平静)」、「心中を打ち明ける(説心里話)又は(傾吐内心)」があります。

 恋愛関係にある男女の「しんじゅう」を中国語では「情死」といいます。「情」とは「感情、心持ち、心情」を意味しますが、中国語の「情」には「男女間の愛情」との意味もあり、皆さんご存知の通り「情人」は「恋人」であり、「情侶(恋愛関係にある男女)」、「談情(愛情を語らう)」等の表現があります。従って「他們両个人情死了」といえば愛し合った男女二人が一緒に自殺することです。この他日本語で使われている「しんじゅう」の例としては、中国語の表現を意訳したのかも知れません。

が、「無理心中(強迫一同自殺)」、「親子心中(父母子女一同自殺)」、「ガスによる一家心中(用瓦斯中毒方法全家自殺)」があります。「心中建てする」との用例では、「彼は、将来に見込みはないが会社に心中して辞めずに仕事をすると言っている(他説、雖然在将来没有什麼把握、他没退辞在這个公司継続工作)」とか「彼は李君に心中建てして、共に会社を辞めた(他対小李守信義、一起退辞公司)」の表現があります。

 なお中国では「唖(おし)」をいろいろな例えに使うようで、「唖愛説話(おしは喋りたがる)」は「出来ないくせに手を出したがる」ことを意味しており、「唖吃黄連、有苦説不出来(おしがせんぶりを飲んだ、苦くても口に出すことが出来ない)」は「人に告げられない非常な苦しみがある」との際に使われます。

▲トップ


 

■(第57回) 〔専門〕 2006-7-12

 日本語の「専門」は「その事柄を研究・担当するだけで、それ以外の事にはかかわらない」との意味を持っており、そこから「専門学校」「専門科目」「専門家」「専門とする」等の言葉があり、これに関連して自分の専門以外のことを全く分からない人のことを揶揄した「専門馬鹿」との言葉もあります。またこれ以外に特定の分野で仕事或いは研究をする上で使われる造語を「専門用語」といっています。

 日本語の「専門学校」は中国語で「専科学校」といい、その他「専門科目」は「専業科目」、「専門家」は「専家」、また「専門用語」は「専業術語」です。用例としては「私の専門科目は遺伝工学です(我的専業科目是遺傳工程)」、「彼の専門は医学です(他的専業是医学)」、「彼は仕事を通して育成した機械組立の専門家だ(他在工作中培養出来的装配机械的専家)」、「専門用語を知らない通訳は、如何に会話がうまくても実際の仕事には使えない(不知道専業述語的翻訳、雖有非常好的会話能力、但不能用于実際業務)」等があり、また「我々は目下中国経済を専門的に研究しています(我們正在専門研究中国経済)」との副詞的な使い方もされています。

 一方中国語の「専門」は「あることを専門として、もっぱらそれに従事する」との意味から転じて、日本語の「もっぱら、何かをする」との副詞としての使い方しかありません。用例としては、「今回首相はもっぱら農村地区を訪問した(這次総理専門訪問了農村地区)」、「この製品はもっぱらアメリカ向けに輸出されている(這个成品専門向美国出口)」、「彼はもっぱらこの点ばかり知りたがっている(他専門愛打聴這些事)等です。

 日本語も中国語も「もっぱら何かをする」と副詞として使われていますが、日本語の方は「中国経済を専門的に研究している」との例のように、専門としてやることにしか使えません。一方中国の方は「農村地区の訪問」や「アメリカ向けの輸出」等々何にでも使えるところに差がある次第です。 さて日本語で「皆それぞれが専門を活かす」を、中国語では「大家発揮各自的専業特長」と訳しますが、面白い言い方として「八仙過海、各顕其能」というのがあります。これは「八人の仙人が船で海へ漕ぎ出した時に、それぞれの仙人が自分の得意な能力を発揮して困難を克服し海を渡る」というもので、皆それぞれが自分の専門的能力を発揮する例えとして使われます。

▲トップ

 


 

■(第56回) 〔行事〕 2006-7-4

 今回は「行事」を取り上げます。日本語で「行事」と言えば「年中行事」「恒例の行事」との表現のように「その社会の慣行として、時を定めて行う儀式や催しもの」のことを指します。「年中行事」を中国語で説明すると「一年中按計画或習慣挙辧的活動」となり、「運動会は学校の年中行事の一つだ」は「運動会是在学校毎年例行的活動之一」となります。中国語の「例行」には「型どおりに行う」との意味がありますので、「年中行事」の中国語訳は「一年中例行的活動」或いは「毎年例行的事」となるでしょう。

 一方中国語の「行事」は、この言葉の通り「事を行う」が語源となって「行い」や「行為」を意味すると共に、「人付き合いや人あしらいの手腕がある」との意味に使われます。「行い」や「行為」の用例としては、「言談行事(言葉と行い)」、「按道理行事(道理に従って処理する)」、「見机行事(チャンスを見て行う)」等の表現があり、また「他行事為人、都叫人佩服(彼の行為と人となりは、他の人の尊敬を受ける)」或いは「看交情行事(付き合いの程度によって実行する)」等の表現もあります。

 「人付き合いや人あしらいの手腕がある」との用例は、「這个太太真不会行事、人家老遠地来了、也不知留人吃頓飯(この奥さんは全くお客さんの扱いが出来ない、人が遠い処からやって来たのにご飯も出さない)」とか「他真会行事、用几句話先譲老張走、然后才告訴老李這件事(彼は立派な人あしらいの手腕を持っている、二言三言で先ず張さんを去らせ、その上で本件を李さんへ伝えた)」です。

 「事を行う」という「行事」が何故「人付き合いや人あしらいの手腕がある」との意味として使われるのか、年中行事等の「行事」としての意味しか知らない日本人にとって疑問が残る所です。実は「行(Xing)」には「行く、よろしい!、かまわない」の意味と併せて、「手腕がある、適任である、すばらしい」の意味を持っています。「這个小組的成員都很行(このグループのメンバーはみな腕利きだ)」、「老李起実験来、真行(張さんが実験をやりだすと、誠にすごい)」、「老王、真行!(王さん、貴方は本当にすばらしい!)」との用例です。必ず「很や真(たいへん、まことに)」の「程度」を意味する副詞の後で使います。但し同じ「程度」を意味する副詞でも「最、極、有点儿」等の後には使いません。この場合の「行」は全て「能力の素晴らしさ」を表しており、これが転じて「人付き合いや人あしらいの手腕がある」を意味するようになったと思われます。

 「行事」は語源的には「事を行う」との同じ意味から発生していながら、日本語と中国語では全く使い方が異なる面白い言葉です。中国語では「行い」や「行為」との語源の意味を残していますが、日本語の用途は運動会、神社の例祭、四季の儀式等の「その社会の慣習として、時を定めて行う活動や儀式」のみの意味となっており、恐らく日本では中国から伝来した「行事」という言葉を、「行う事」或いは「行うべき事」との意味で使う習慣が出来たのでしょう。

▲トップ

 


 

■(第55回) 〔新聞〕 2006-6-29

 日本語での「新聞」は、毎朝毎晩自宅に配達される「新聞」や駅の売店で販売している「新聞」のことで、それ以外に新聞の意味はありません。この新聞から発生した「新聞辞令」「新聞記事」「新聞種」「新聞記者」「壁新聞」「新聞紙(しんぶんし及びしんぶんがみ)」等の言葉はあります。

 日本語の「新聞」のことを中国語で「報」又は「報紙」といい、前出それぞれの中国語は、「新聞辞令」が当事者の窺い知れない人事に関する噂話・情報とのことで、「報上未透露的(未正式公布的)人事任免信息」となります。その他は「新聞記事を書く(写条新聞消息)」、「新聞種(報道的材料、稿源)」、「新聞記者(新聞記者で日本語と同じ表現)」、「壁新聞(壁報、墻報)」、「新聞紙/しんぶんがみ(旧報紙)」となります。また関連した用例としては、「新聞をとる(訂閲報紙)」、「私は毎日朝晩に新聞を読む(我毎天早晩看報)」、「新聞報道によると日本経済はとうとう底をついて、上向きに転じた(据報紙所載、日本経済終于脱谷底、転向増長)」等の表現があります。

 一方中国語の「新聞」の意味は「ニュ−ス」、即ち新しい情報や出来事のことで、マスコミによって伝えられるニュ−スを意味しています。中国のテレビでニュ−スを見ていますと、最後に「今日のニュースをお伝えしました」と言って終了しますが、この時に「今天新聞播送完了」と言っています。マスコミは「新聞工作者」、マスメディアは「宣傳工具」或いは長くなりますが「報紙・電視・広播等宣傳媒体」と表現します。

 扨て漢和辞典や広辞苑を見ますと、「新聞」とは「新しく聞いた話、新しい見聞、新しい知らせ、ニュ−ス」との記載があり、また「新聞紙の略」となっています。従って「新聞」そのものの意味は中国語と同じく「ニュ−ス」であり、新聞紙の名称が日本経済新聞や朝日新聞となっていたので、日本ではいつの間にか「新聞紙/しんぶんし」のことを「新聞」と言い習わすようになったものと思われます。

▲トップ

 


 

■(第54回) 〔大家〕 2006-6-21

 日本語で「大家」というと、芸術や技術の抜きんでた人や権威者を意味する「たいか」と賃貸住宅や建物の貸主である「おおや」の二つの違った発音による用途があります。中国語でも芸術や技術の抜きんでた人や権威者を「大家」と表現します。「書法大家(書の大家)」、「大家手筆(大家の著作)」等です。また同じ範疇の用途として日本語の「名門名家」の意味があり、「大家閨秀(名門の令嬢)」や「到底是大家出身、言談挙止就是不同(何といっても名門の出身だけあって、言うことなすことが他の人と違う)」との表現です。なお日本語の賃貸住宅や建物の貸主である「おおや」のことを中国語では「房東」或いは「房主」といいます。この「房東」に対する「借家人」、即ち「店子」のことを「房客」といいますが、一般的には「租房人」です。

 扨て日本語と全く違った中国語の意味は「みんな」或いは「皆」です。用例としては「一定範囲内の全ての人」を指す場合と「ある人又はある人達を除いた他の一定範囲内の全ての人」を指す場合の使い方があります。前者の用例は「大家的事、大家一起辧(皆のことは皆で一緒にやる)」、「大家的情緒很高(皆の意気込みはたいへん高い)」、「大家都是熟人、彼此不必拘束(みんな知合いだから、そんなに四角ばらなくても良い)」、「這个費用大家分攤(この費用は皆で共同負担する)です。後者大雨と天気予報で言っていると伝えてくれ)」、「我決不辜負大家的期望(私は決してみなさんの期待に背きません)」、「他們一進来、大家都鼓掌表示歓迎(彼等が入ってきたら、みんな拍手で迎えて歓迎した)」があります。

 その他「大家」には、よく複数の代名詞の後に用いて、それと同格の表現をする場合があり、「們大家(君達皆さん)」や「我們大家(我々みんな)」との使い方です。「大娘!、老李不在身辺、還有我們大家(おばさん! 李さんが貴女のそばに居なくても、私たちが居ますよ)」と表現します。

 「大家」が「書の大家」とか「名家名門」として使われるのは理解出来ますし、また中国は大家族制度ですから、「大きな家にたくさんの人がいる」と解釈すれば「みんな」を指すことまでは理解出来ます。然し何故「家主(房東)」のことを日本語で別の発音で「おおや」と言うのかが分かりません。多分昔「店子」が「おおやさん」と敬称で呼んでいる所から推察すると、昔は金持ちが自分の広い土地の中に小さい家をたくさん建てて従業員や小作人を住まわせていましたが、そこから大きな家に住んでいる金持ちの家主のことを「おおや」と言うようになり、それが転じて賃貸住宅や建物の貸主を「おおや」というようになったのかも知れません。こう解釈すると「おおや」も大きな家に住む金持ちとのことから「名門名家」の「大家」の範疇と在ると言えます。言葉というものは誠に面白いものです。

▲トップ

 


 

■(第53回) 〔東西〕 2006-6-14

 日本語の「東西」には「東と西」の意味だけと思ったら、結構いろいろな意味があります。「東と西」「東部と西部」と併せ、「東洋と西洋」、「東西!東西!」と叫んで観客のどよめきを静める言葉、自由諸国と社会主義諸国との間に存在する国際問題の総称としての「東西問題」、そして江戸時代に四辻に立って口上を述べた「東西屋」等々です。なお関西では「ちんどん屋」のことを「東西屋」と言うそうです。

 中国語では「東西」を「Dong−Xi」と発音しますが、「西」を「東」と同じ強さで発音すると「東と西」の意味であり、「西」を軽声で発音すると「物品、物事や人物、知識」を指す場合に使われる代名詞的用語になります。

 「東と西」の用例としては「這个公園東西1公里、南北2公里(この公園は東西が1キロ米、南北が2キロ米あります)」があり、また「東〜西〜」の形式で「あちこち」とか「あれこれ」等のいろいろなことを表現します。用例として「東張西望(あちこちをキョロキョロ眺める)」は「郷下人剛進城総是東張西望(田舎者が町に来たばかりの時は、とかくあちこちをキョロキョロ眺めたがる)」として使い、「東拉西(出まかせに喋る)」は、「他不等聴完、就東拉西滔滔不絶(彼は話を聞き終わらず、口から出まかせに滔々と喋り続けた)」との使い方をします。

 四字形式として「東眺西望」や「東撒西看」は「東張西望」と同じ意味で、この他「東拿西湊(あちこちから[金や物を]無理算段して集める)」、「東翻西找(あちこちをひっくり返して捜す)」、「東成西就(何もかもいろいろ成功する)」、「東奔西(東奔西走する)」、「東扶西倒(こちらを支えるとあちらが倒れる、守ることが難しい)」、「東鱗西爪(こまごまとして纏まりがない)」、「東来西往(あちこち行き交う)」、「東塗西抹(むやみに書き散らす、文章を苦労して作る)」、「東搗西蓋(ひた隠しに隠す)」等々で、その他まだたくさんの用例があります。

 また四字形式を採らない「東一句西一句(話の順序がめちゃくちゃ)」、「東不成西不成(何もかもうまく行かない)」「東不靠西不靠(寄る辺がない、頼るところがない)」、「東不着西不着(どっち着かず)」、「東一頭西一頭(あちこち逃げて始末に終えない)」、「東一耙子西一掃箒(きまぐれに、無計画に事を運ぶ)」もあります。

 一方「物品、物事や人物、知識」の場合で、先ず物品や物事の用例としては、「他収拾好東西就走了(彼は片付けを済ませてから直ぐ行ってしまった)」、「他買東西去了(彼は買い物に行った)」、「一成不変的東西是没有的(一定不変の物事は存在しない)」があります。特に食品や煙草の際に「病人吃了東西没有?(病人は何かものを食べたか?)」とか「我抽不慣這个東西(おれはこれを吸い慣れていない)と使います。

 また人物に使う場合は、憎しみや可愛さを含めて「……の奴」という表現の際に使い、「這个老東西(この老いぼれめ)」とか「他算是什麼東西(あいつは何という奴だ)」、「這小東西真可愛!(こいつは本当に可愛い!)」の表現をしますし、知識や道理を示す場合には、「我从他的著作中、学到了很多東西(私は彼の著作からたいへん多くの事を学んだ)」、「語言這个東西、非苦功学不好(語学というものは一生懸命勉強しなければ学ぶことは出来ない)と使います。

 以上は東西ですが、南北を使ったこの様な特別な表現はないようです。唯一面白い表現として「東西南北人(住居が一定しない人)」があります。

▲トップ

 


 

■(第52回) 〔預備〕と〔予備〕 2006-6-7

 今回は中国語の「預備」と日本語の「予備」を取り上げます。この両方とも日本語での発音は同じ「よび」であり、共に「予め備える」との意味があるので、同じ言葉と混同しそうですが、それは「預」の略字が「予」ではないかと思われる為かも知れません。日本語の「予」は「預」の略字ではなく「豫」の略字です。日本語で「伊豫の国」を「伊予の国」と言いますが、「預金」や「預ける」との言葉を「予金」或いは「予ける」とは書きません。従って「予備」は「豫備」の略字となります。然し漢和辞典を調べると「預」の字の末尾に「前以って準備する、豫と同じ」との説明がありますので、「豫」も「預」も過去に同一的使われ方をしたことがあるのでしょう。

 因みに「未来の事を予測して言う」との言葉の「予言」は「預言」と「豫言」の両方が漢和辞典に掲載されていました。

 中国語の「預」には、「予め」や「事前に」との意味はありますが、「預ける」との意味はありません。「預備」は「予め備える」「前以って備える」との意味ですから、日本語の「準備する」「用意する」との意味になります。用例としては「們預備好了?(みんな用意が出来ましたか?)」、「冬天快来了、要預備棉衣(もう直ぐ冬になるので、綿入れの用意しなければ)」、「下星期就考試了、我正在預備功課(来週は試験なので、私は目下試験の準備をしている)」等があります。面白いのは徒競走のスタ−トの合図で「位置について、用意、ドン」がありますが、これを中国語で「各就各位、預備、!」と言います。

 なお「準備する」の意味として、もちろん「准備」も使えます。

 「預」の字のみの「予め」の用例として「勿謂言之不預(予め注意してくれなかったのはけしからんと言わないで下さい)」、「預付款(前払金)」等があります。また「予め」以外の意味として「参加する」「関与する」があり、用例として日本語の「参与」に当たる「参預(参加してたずさわる)」や「不必干預(関与するには及ばない)」等です。

 日本語の「予備」は「前もって準備している」と意味は同じですが、形容詞として使い、中国語のように「準備する」との動詞としての使用はありません。用例として「予備のお金を貯金する(把備用的銭儲蓄起来)」、「予備を使って修理する(使用備件修理)」、「予備知識(備用知識)」等です。

 なおご参考までですが、中国語の「予」は独立した字で、昔日本の大名が自分のことを「予(或いは余)」と言った「我」「自分」の意味と併せ、「与える」や「してやる」との意味があります。「予以適当照顧(適当に世話をしてやる)」、「予以批判(批判を加える)」、「現在所表示的誠意是、必須予以充分認識的(現在示されている誠意は、十分に認識されねばならない)」等です。

▲トップ

 


 

■(第51回) 〔職工〕 2006-5-31

 今回の題材は「職工」です。日本語で「職工」というと、工場で働いている技術労働者を意味します。日本の企業では会社で雇用者として働く人員をまとめて「社員」或いは「従業員」と称しており、事務所で働く人を「事務職」或いは「職員」、工場で働く人を「工場労働者」或いは「工員」、そして「職工」と称しています。現在では「工員」の方が一般的で、余り「職工」とは言わなくなっています。

 例えば「この工場の職工(工員)は全員で500名です」は中国語で「這个工厰的工人一共有500个人」、「この職工(工員)はたいへん勤勉です」は「這个工人工作得很努力」となります。

 一方中国語で「職工」というと、官庁、会社或いは学校で勤務している従業員の総称であり、「職」は「職員」の略で、「工」は「工人」の略です。「職員」は日本語の「事務職」或いは「職員」を意味しており、「工人」は「労働者」を意味しますので、職員+労働者=従業員となる次第です。従って同じ表現での例をとると「この会社の従業員は全員で500名です」が「這个公司的職工一共有500个人」となり、「この会社の従業員はたいへん勤勉です」が「這个公司的職工工作得很努力」となります。

 日本語と中国語の使い方の大きな違いは、中国語では「従業員=職員+労働者」となっていますが、日本語は「従業員=労働者」である点です。日本では第二次世界大戦終了後に労働組合が設立され「資本家vs労働者」との構図が出来ました。本来従業員は全て労働者とのことで、企業で言えば管理職も労働者として組合員になれる資格があったのですが、その当時は管理職は会社側(即ち資本家側)とのことで組合員にはなれませんでした。最近では非常に緩和されて部長以外の管理職も組合員になれるようになった企業が多い様です。

 一方中国では「従業員=職員+労働者」と明確に分けていながら、「工会」と称する労働組合へは「給与取得者であれば全員組合員になれる」と規定されており、さすがに社長(総経理)は組合員にはなりませんが、副社長(副総経理)以下の職員及び労働者が全員組合員になっていました。共産主義国家であった中国には資本家が存在しなかったのですからこれは当然と言えます。然し現在では中国でも外資との合弁企業のみならず、中国企業にも資本家が出現して取締役会(董事会)が設立されていますので、これからは大きな変化が出てくると思います。

▲トップ

 


 

■(第50回) 〔我慢〕 2006-5-24

 日本語での「我慢」は、「耐え忍ぶこと」や「自分を抑えて相手を許すこと」を意味しています。中国の一番有名な「我慢」には「韓信の股くぐり」があります。韓信は漢初の有名な武将で、蕭何、張良と共に「漢の三傑」と言われた人です。漢の高祖仕え、大将軍、そして楚王に封じられた傑物ですが、若い時にやくざに絡まれ、辱められてその股くぐりを強要さられたが、自分の将来の大望を考え我慢して股くぐりを行った逸話で有名な人です。

 「我慢」の中国語訳には「忍耐」「容忍」「自制」「原諒」「将就」などがあります。だいたい字をみると意味する所を理解できますが、「将就」だけは日本人に意味の推察が難しいでしょう。「将就」の用例には「求人得将就(人に物を頼むには、何事も我慢しなければならない)」、「冷是冷、還可以将就(寒いことは寒いが、まだ何とか我慢出来る)」、「将就不下去(これ以上我慢しきれない)等があります。なお「将就」には「間に合わせる」との意味もあり、「我的中国話能将就説得上来了(私の中国語はどうにかこうにか話せるようになりました)との表現です。

 その他の語句の用例としては、「忍耐一下(ひとまず我慢しておく)」、「已経到了不可容忍的地歩(既に我慢出来ないところまで来ている)」、「自制心強的人(自分で我慢出来る心が強い人)」、「他対待我非常勵害、這次原諒他、但下不為例(彼は私に対したやり方がたいへんひどい、今回は我慢してやるが次は許さない)」等の使いい方があります。

 扨て中国語の「我慢」には「私はゆっくり行う、私はおそい」との以外に意味はありません。「他做得很快、比他我慢(彼の仕事はたいへん早いが、私は彼に比べてゆっくりだ)」との表現です。この「我慢」だけは、同じ漢字であるにもかかわらず、意味が全く違うのに驚かされます。

 日本語には、耐え忍ぶという「忍耐」や自分を抑制する「自制」等の言葉があるのに、何故「我慢」がその意味に使われるのか、その故事来歴は分かりません。「慢」の字には「侮る、驕る、怠ける、気まま、ゆるむ、ゆっくり」等々余り良い意味がありません。それに自分を意味する「我」がその前に付いています。実際に漢和辞典をみると「我慢」には仏教語として「自分の才能をたのんで他人を押しのける」との意味があり、また「我意を張る、片意地」との意味が記載され、最後に「許す」と記載されています。従って「耐え忍のぶ」や「自制して他人を許す」との意味の言葉が、何故「我慢」として現代社会で使われるようになたのでしょうか。若しご存知の方がおられたら是非教えて下さい。

 日本では上司と部下、先輩と後輩、近所付合い等々、人間関係が非常に厳しい環境にあり、かかる環境の中で育てられた日本人は比較的我慢強い性格を持っています。然し現代では我慢に我慢を重ねるとストレスが溜まり、それが限界にくると回復不能の病気となってしまうので注意する必要があります。とは言え、人生には対応が難しく、我慢出来ないことがいろいろと起こりますので、「ならぬ堪忍、するが堪忍」の精神を以って、狭い日本の社会の中で他の人との和を保てるよう、ストレスは溜めずに解消を図って出来るだけ頑張りましょう。何しろ日本では「我慢は美徳」と言われています。

▲トップ

 


 

■(第49回) 〔階段〕 2006-5-17

 日本語で「階段」というと、駅の階段とかビルや家の階段で、「一階から二階へ上がる階段」を意味しています。従って若し「這項工作分階段進行」という中国語を見ると、日本人は「この仕事は階段を複数作って、それぞれ別々に仕事を進める」と理解してしまう恐れがありますが、実際は「この仕事は段階を分けて進める」との意味で、中国語の「階段」は、日本語ではその字が逆さになった「段階」の意味です。

 駅の階段、ビルや家の階段は、中国語では「楼梯」或いは「台階」といいます。用例としては「一階から二階へ上がる階段」は「従一楼到二楼的楼梯」といい、「駅の階段を上がる」は「上車站的楼梯」となります。その他「エレベ−タ−より階段を使う(不坐電梯、走楼梯)」、「高層ビルも階段は備えていなければならない(在高楼大厦也要備有楼梯)」等です。

 中国語の「階段」は、物事やプロジェクトを幾つかの段階に分けて行うことに使われ、日本語の順を追って進む「階段」を意味する中国語は、「等級」や「歩驟」で表現されます。幾つかの段階に分けて行う用例は、「新しい段階に高めた(提高到新的階段)」、「この仕事は三つの段階に分けて行う(把這个工作分三个階段進行)」、「現在まだ初級の段階にある(現在還在初級的階段)」等です。また順を追って進む例としては、「段階を追って進む(有歩驟地進行)」、「彼は一つ一つ段階を経て部長の地位に到達した(他一歩一歩爬到部長的職位)」、「段階を分ける(分等級)」等があります。

 今回の中国語の「階段」が日本語で「段階」であるような、二字熟語が日本語と中国語で逆さになった例がまだまだあるのではと思います。例えば日本語の「兄弟」は中国語でも「兄弟」ですが、「弟兄」も日本語の「兄弟」を意味しており、また中国語で「達到」といば日本語で「達成する」との意味ですが、「到達する」との意味も持っています。

▲トップ

 


 

■(第48回) 〔手抜〕 2006-5-9

 最近日本ではマンションの耐震構造に関する設計計算の偽造と、それに合わせた建築工事の手抜きが大きな話題となっています。しなければならない手続きや手数を省くことを日本語では「手抜き」と言っています。然し中国語では「手抜」といった場合に「手を使ってあるものを抜く」との、文字の通りの意味しかありません。例えば「手で草を抜く(用手抜草)」との表現です。

 日本語で「手抜」といった場合、「手抜き」と「手抜かり」の二つの言葉があります。「手抜き」の意味は前出の通りですが、「手抜かり」は不注意のための手落ちを意味しています。「手抜き」の例としては、「手抜き」が「偸工」で、「建築面で手抜き工事がある(建築上有偸工減料之処)」です。また汚職や現場管理の不徹底による手抜き工事で、「豆腐のような不安定な土壌の上に建てる手抜き工事」というのがありますが、これを中国語では「おからの上の工事」と表現し、「豆腐渣工程」といっています。一方「手抜かり」の例としては、「この調査に手抜かりがあった(這个調査有漏洞)」、「手抜かりなく警戒する(厳密戒備)」、「手抜かりだらけ(漏洞百出)」等があります。

 最近話題となったのはマンションの設計計算偽造の例ですが、その他最近日本でよく報道されているのは、老人が一人で住んでいる一軒家へ顔を出して、「お宅は耐震上弱い箇所がある」といい、法外な料金をとって何の役にも立たない見せかけの強化工事をする詐欺事件ですが、これは「手抜き工事」を上回る悪行です。

 然し一番怖いのは公金横領などの汚職による公共工事の手抜きで、一度災害が起こると大多数の人が犠牲になります。これは仄聞した例ですが、1999年1月に重慶市で「彩虹橋」が崩壊し、40人の死者を出した大惨事があったとのことです。この原因が手抜き工事であったと言われており、今後決してこのようなことが起こらないことを願っている次第です。

▲トップ

 


 

■(第47回) 〔喧嘩〕 2006-4-27

 「喧嘩と火事は江戸の花」との言葉があります。江戸っ子は気が短いので、ちょっとしたことで直ぐに喧嘩が始まったのでしょう。一方中国の劇場で「場内禁止喧嘩」という標識があります。これを見た日本人は「中国人は場所を構わず映画館の中でも喧嘩をするのだな」と誤解するかも知れません。然し中国語の「喧嘩」は「大きな声を出す、やかましく騒ぐこと」を意味しており、日本語の「喧嘩をする」との意味は全くありません。「場内禁止喧嘩」とは「場内は静粛に」との意味です。

 もっとも日本語の漢和辞典では、「喧」の字は「やまかしい、騒々しい、大声を立ててわめきまわる」の意味で、「嘩」の字も「やかましい、騒々しい」の意味です。「喧嘩」はこの二つを会わせた熟語なので、当然「やかましく騒ぐ、やかましく言い立てる」との中国語と同じ意味が第一義となっており、第二義として「争い、いさかい」が出ています。面白いことに国語辞典の方では「互いに自分が正しいと譲らず相手を激しく非難し合ったり、殴り合ったりすること」と、所謂我々が言う「喧嘩」の意味だけで、「やかましい、騒々しい」との意味は出ていません。やはり「喧嘩と火事は江戸の花」で、江戸っ子は気が短く、騒々しい口論の結果、殴り合いになったので、このような争いを「喧嘩」という習慣が定着したのかも知れません。

 では日本語の「喧嘩」を中国語ではどう表現しているかとのことです。「喧嘩」の中国語訳は「嘴」、「打架」、「争」などがあります。この「]は、「やかましい、口喧嘩をする」の意味があり、また「架」には「置く、掛ける」との一般的な意味の他に、「喧嘩する、殴り合う」との意味があります。例としては「つまらないことで喧嘩する(因為小事架」や「喧嘩のとばっちりをくった(因別人打架受牽連)」があります。また日本語でよく使われる例としては、「喧嘩を分ける(勧架)」、「喧嘩を買う(有架就打、替別人打架)」、「喧嘩早い(好打架、動不動就打架)」等があります。

 中国の町角でよく見られる風景ですが、二人が大声で言い争っており、たくさんの人だかりが出来ています。両者は決して手は出さず自分が如何に正しいかを声高に申し立てており、時には廻りの見物人が即席裁判官と化して口を出すこともあるそうです。中国では道理で相手を納得させるのがよい喧嘩で、正当な理由がいくらあっても暴力を振るうことは最低とされています。

 実際に見たことはありませんが、中国の面白い習慣は「夫婦喧嘩」で、奥さんが外に出て、近所の人の前で「如何に亭主が悪いか」とのことを延々と大声で申し立てるそうです。結局亭主はきまりが悪く女房に謝らざるを得ないというのですが、若しこれが日本で起こったら、その奥さんは何と言われるのか面白い所です。

▲トップ

 


 

■(第46回) 〔改行〕 2006-4-19

 日本語で「改行」は、行を改めて文章を書き始めることで、パソコンやワープロのキ−となっており、皆さんがよくご存知の言葉です。中国語の「改行」にもこの意味はあります。然し中国語では単に「改行」とは言わず、「別」の字の左側に似た字で同じ「別」という意味を持つ、「]の字を使い、「起一行」と言います。「別に新しく行を起こす」と丁寧に表現する次第です。従って「ここで改行せよ」は「這里起一行」であり、また「段落で改行する」は「按文章的段落、起一行」との使い方をします。

 ここの「行」は日本語で「ぎょう」と発音するように、文章の「一行」「二行」を表しており、この「行」の発音は「Hang」です。「一行字(一行の字)」「両行樹(二列の樹木)」等で、また「行間を開ける(打開字行的距離)」や「作者の熱意が行間に溢れている(字里行間洋溢着作者的激情)」があり、また我々がよく使っている「文章の行間の意味を読む」との言葉は、「領会文章的所表現的実質意思」となります。これ以外で「行列」もこの範疇であり、「行列を作る(排隊)」や、「提灯行列(提灯游行)」等です。

 日本語で「行」を「こう」と発音する場合があります。これは「行く」や「行い」を意味する場合で、中国語の発音は「Xing」です。「人行道(人道)」、「上行車(上り列車)」等です。日本語の「行く」や「行い」はいろいろな使われ方をします。「行く」には、「学校へ行く(上学去)」、「会社へ行く(上班去)」、「社会主義の道を行く(走社会主義道路)」、「年端も行かないのにうまいものだ(年紀雖然小、却做得很好)」、「満足が行く(感到満足)」、「納得行く(可以理解)」、「そうは行かない(那可不行)」等多々あります。

 「行い」を示すものとしては、「お嫁に行く(出嫁)」、「この仕事をやって行くことにした(決定把這个工作做下去)」、「善行を施す(做好事)」、「悪行を働く(做壊事)」、「奇行を働く人だ(他是行為古怪的人)」、「小雨の中で試合を強行する(在小雨中堅持比賽)」、「凶行現場(行凶的現場)」等々があります。

 また中国語で「Xing]と発音した場合に、「よろしい、大丈夫」や「差し支えない」、「もう結構だ、十分だ」の意味があり、「行不行?(いいですか?)」とか「この天気はもう大丈夫だ、雨にならない(天気行了、不至于再下雨了)」、「よろしい、彼さえ居れば大丈夫だ(行!、他在這里就行了)」等の使い方をします。

 扨てここからが中国語の「改行」の説明です。日本語の「行」には、職場や仕事を表す言葉としての「行」があり、発音は「Hang」です。中国語でその代表的なものが「銀行」です。この意味を踏まえたものが中国語の「改行」で、「職場や仕事を変える」との意味があり、例として「今までの専業を放棄して、商売に転業する(放棄原来的専業、改行做生意)」や「今の仕事は素晴らしいじゃないか、何故仕事を変えるのか?(現在的工作不是很好? 為什麼改行)」。

 結論的にいうと、「改行」は日本語では「文章の行を変える」ことであり、中国語では「仕事を変える」ことです。また「行」と言う字が日本語では非常に広範囲に使われおり、些か長くなりましたが、その点と併せて説明しました。

▲トップ

 


 

■(第45回) 〔皮肉〕 2006-4-13

 日本語で「皮肉」というと、我々は一般的に「皮肉を言う」との使い方しかしておりません。この場合の「皮肉」の意味は「あてこすり」や「いやみ」であり、解釈をすると「間接的な意地の悪い非難」となります。また「皮肉な結果であった」という言葉があり、これは物事が案に相違した結果となったとの表現です。

 一方中国語の「皮肉」はその文字通りの「皮と肉」、そしてそれから転じた「からだ、肉体」の意味しかありません。例えば「受皮肉之苦」で、これは「肉体的な苦痛を受ける」との意味です。

 日本語の「皮肉を言う」の「皮肉」の中国語は、「諷刺」「訊笑」「苦」等です。その用例としては、「彼はよく皮肉の言葉を言う」が「他很愛説諷刺話」、「皮肉な笑みを浮かべる」が「臉上露出訊笑」、そして「あの人は皮肉の名人だ」が「他以苦人而名」、「皮肉を言うな」が「別苦人」で、また「これは皮肉な結果であった」は「這是料不到的結果」、「これは何たる皮肉なことだろう」は「這是多麼令人啼笑皆非)」となります。

 なお現在余り使われていませんが、日本語の「皮肉」にも当然中国語と同じ「皮と肉」、そしてそれが転じた「からだ、肉体」の意味があります。また“骨や髄”に達していないとのことから「からだの表面」との意味があります。松永貞徳と言う人が1644年に口述した師匠の恩を綴った「戴恩記」という歌学書(2巻2冊)の中に「年老いて稽古しがたき故、今に皮肉の間にかかずらい侍るものなり」との記載があります(広辞苑より)。

 では何故“あてこすり”や“いやみ”を言う場合に「皮肉」を動詞化した「皮肉を言う」との表現が出来たのかは分かりませんが、皮肉を言われると直接非難をされた場合と異なって怒るに怒れず、感じとして皮膚の内側がむずむずするところから、このような表現が生まれたのかも知れません。

 なお中国語には「帯皮肉」と言う料理の言葉があります。これは「皮付の豚肉」ということで、著名な料理としては北宋の詩人で杭州の長官をした“蘇東坡”が発明したという“東坡肉”があります。これは日本でいう“豚の角煮”で皮付の豚肉を料理したものです。またこれは隠語かも知れませんが「皮肉」には「売春」という意味があり、「皮肉生意」とは「売春をする」との意味です。

 「皮肉」を使った言葉として「皮松肉緊」があり、これは“はきはきしない態度”の形容で、「他這麼皮松肉緊地做事、我真不高興(彼がこんなにぐずぐずと仕事をするとは、本当に不愉快だ)」とか「這个孩子皮松肉緊(この子はぐずだ)」との表現をします。また「皮笑肉不笑」という言葉もあり、“作り笑いをする”とか“にが笑いをする”との意味で、「彼の話に対して、自分はにが笑いするしかなかった(対他説的話、我只好皮笑肉不笑)」と使います。

 「皮肉」と言う言葉について非常に長い説明となってしまいましたが、これも皮肉なことでした。

▲トップ

 

 

■(第44回) 〔一体〕 2006-4-6

 日本語の「一体」にはたくさんの使い方があります。“仏像を1体、2体と数える数詞”、“皆が一体となって働くとの、全体が一つに纏まることを意味する言葉”、“今年は一体に寒いと、平均的な表現をする言葉”、“一体が丈夫な人ではなかったと言う、根本に溯って原因を突き止めた表現をする際の言葉”、“一体全体ここで何をしているのかと言う、基本的に立場を反省させる際の強調表現”等々です。

 一方中国語の「一体」には、“みな同様に”とか“全体に”との意味と“全員が一つの纏まりになる”との意味しかりません。この点が日本語と大きな違いです。従って中国語の「一体」の用例として、“全体に”の意味では「一体周知(全員に周知させる)」との表現があり、これは行政用語として「ここに布告して全体に周知せしめる(合行布告、一体周知)」との使われ方をしていました。また“全員が一つに纏まる”の用例としては、「我々は海外各国と一体となって平和を推進する」の「我們和世界各国結成一体推進和平」があります。

 扨てそれ以外の日本語の「一体」を中国語でどのように表現しているのかを述べてみましょう。先ず「一体の仏像」は「一尊佛象」です。なお日本語では死体も1体、2体と「体」を数詞として使いますが、死体に対する中国語の数詞は「具」で、「一体の死体」は「一具尸体」となります。

 その他、「今年は一体に寒い」は「今年普遍較冷」、また「彼は一体が丈夫な人ではなかった」との根本に溯って原因を突き止めた表現をする用例としては「他本来身体就不結実」です。最後の我々が会話で良く使う「一体全体……」や「一体……」と話を強調する際の例としては、「一体全体ここで何をしているのか」が「究竟在這里做什麼」、そして「貴方は一体どうする積もりですか」は「到底打算怎麼辧」となります。

 元来「一体」との漢字から来る意味は「一つにまとまる」とのことですから、中国語の表現の方が非常に妥当と思われ、何故日本語にはこのようないろいろな表現があるのかが不明ですが、或いは「いったい」と話言葉として使われていたものに、敢えて「一体」という漢字を当てはめたのかも知れません。

 

▲トップ


 

■(第43回) 〔運転〕 2006-3-30

 日本語の「運転」は、「自動車を運転する」とか「設備を運転する」等、機械設備類を手を使って動かす時”に使います。従って人が手を使わないで機械設備類を動かす時には敢えて「自動運転」と言う言葉があります。もう一つの使い方は「運転資金が必要である」とか「資金運転がたいへん良い」と言うように“やりくりするお金”の場合に使います。機械設備類の場合もお金の場合も人の手(或いは人の意思)を使って動かす時に使うのが特徴です。

 一方中国語の「運転」は「動く」「回転する」「運行する」と自動詞としての使い方が特徴で、他動詞としては使いません。従って「自動車を運転する」は「開汽車」であり、「設備を運転する」は「開動設備」となります。自動詞としての使い方は、「機械が良く運転している」は「機械運転得很好」、「設備が止まらずに動いている(設備不停地運転)」であり、また「惑星はみな太陽を巡って運行している」と言う場合は「行星都繞着太陽運転」と表現します。

 「運転資金」は中国語で「周転資金」或いは「流動資金」です。資金を運転する場合の「運転」には、「周転」及び日本語も同じですが「運用」等を使います。「運転資金が必要である」は「需要流動資金」、「資金運転がたいへん良い」は「資金周転得很好」等です。

 その他「運転」に関連した中国語としては、「安全運転(安全行車)」、「自動車の運転手(開車司机)」、「運転免許証(駕駛執照)」があります。日本語では「運転」にたくさんの使い方がありますが、中国語の場合は名詞及び自動詞なので、使い方が少なく、「開」「開動」「周転」等の語彙を使います。

▲トップ

 


 

■(第42回) 〔一定〕 2006-3-22

 日本語の「一定」の反対語は「不定」です。従って「一定」とは、「定まって動かないこと」「定まった状態にすること」「予め決まっていること」「特定の」等を意味しています。“温度を一定する”“一定の方針”がこれに当ります。また面白いのは「不定」の反対語でありながら、漠然とした表現にも使われることで、「必ずしもそうではないがある程度の」、或いは「かなりの」「相当の」「それなりの」の意味で、“一定の成果を挙げる”、“一定の役割を果たす”、そして「それなりに相当な理由がある」との表現に使われています。日本語の「温度を一定する」は、中国語で「規定統一的温度」と表現しますが、日本語の「一定する」は動詞としての使い方です。

 一方中国語には、日本語と同義語の「ある程度の」「かなりの」「それなりに相当な」の場合や「一定の」「特定の」との場合に使われると共に、「きっと」「必ず」「是非とも」との意味があるのが特徴で、これ等の語句は副詞です。

 中国語で「彼はきっと来る」は「他一定来」、「必ずこの様でなければならない」は「一定得這个様子」、「是非ともこの設備を修理しなければならない」は「一定要把這个設備修好」です。日本語と同義語の方は、「彼はある程度の成果を挙げた」は「他作出了一定的成果」、「彼はかなりの成績を取った」は「他取得了一定的成績」であり、また「それなりに相当の理由がある」は「有一定的理由」と表現します。また「一定の」や「特定の」の用例としては、「一定の方針(一定的方針)」や「この生活様式は特定の民族に属している(這个生活様式属于一定的民族)」との使い方があり、また「一定不変の真理」は「一定不易之真理」と表現します。

 今回「一定」を取り上げたのは、我々の中国語会話で良く「明日必ず来てね!(請明天一定来と「一定」を「きっと」或いは「必ず」と副詞としての使い方をしますが、日本語の「一定」には副詞としての使い方がなく、一方日本語は例えば「学生の服装を一定する(規定学生的服装)」と「一定」を動詞として使いますが、中国語には動詞としての使い方がありません。

 なお漢和辞典を調べましたら、用例の最後の「必ず」「きっと」との意味が掲載されていましたが、国語辞典の方にはこの用例の掲載がありませんでした。

▲トップ

 


 

■(第41回) 〔料理〕 2006-3-15

 日本語で「料理」というと食べる料理しか考えられません。「料理をする」は美味しくものを食べられるように食材に手を加えることですし、「料理店」は食事を供する店、「料理人」はお料理を作る人(職人)の意味です。然し“新明解国語辞典”を見ると「物事をうまく処理すること」との意味が入っています。然し我々の日常会話では余り使われていません。敢えて言えば「彼をうまく料理してやる」と言う表現がありますが、これはこちらが強い立場にあり、食材に手を加えて自分の好みにあった料理を作る様に、思うがままに相手を操ってやっつけるとの意味で使うくらいです。

 然し中国語で「料理」と言うと、日本語では現在余り使われていない「物事を処理する」とか「物事を整理する」との意味だけで、日本語の“美味しい料理”とか“料理を作る”等の意味は全くありません。「料」には名詞として材料、処方箋で作った一定量の薬、そしてろくでなし等の意味があり、動詞としては推し量る、見計らう、等の意味があります。「理」には名詞としては“道理”“条理”や“きめ”、動詞としては“処理する”“取り扱う”“整理する”等の意味があります。従って「料理」は単に物事を処理するとの意味ではなく、「いろいろ考えて処理する」との意味があることが分かります。従って単に「物事を処理する」と言うより「物事をきりもりする」との意味合いの方が適切かとも思われ、この差中国語の「処理」と「料理」の表現の差になると思われます。

 日本語の「料理」は皆様も良くご存じの通り、中国料理は「中国菜」、家庭料理は「家常菜」、料理店は「菜舘儿」又は「飯舘儿」、料理人は「做菜的人」ですが一般的には「厨師」です。彼は料理がたいへん上手は「他很擅做菜」、豚肉を料理するは「用肉做菜」又は「用猪肉做菜」です。なお料理するとの表現には「做菜」と併せて「烹調」との言い方もあります。

 一方中国語の「料理」の使い方としては、国政を処理するが「料理国政」、家計のきりもりをするが「料理家務」があります。然しこの件は彼に処理を任すは「這件事参考までですが、「料」の“材料”としての使い方は「衣料」「飼料」「燃料」があり、“一定量の薬”の使い方は「一料薬(一服の薬)」「吃了半料就好了(薬半分を服用したら直ぐ良くなった)」があります。また“推し量る”“見計らう”の使い方には「預料(予想する)」「不料(計らずも)」「料不到(思いもおよばなかった」等皆様が日常使っている言葉です。

 また「理」の方は、“道理”や“条理”には「按道理説(道理から言えば)」「理所当然(理の当然」「有条有理(条理に適っている)」があり、“きめ”には「木理(木目)」「肌理(肌のきめ)」があります。“処理する”“取り扱う”はひとつだけ「受理(受理する)」を例として挙げます。

▲トップ



高井伸夫法律事務所
顧問  久佐賀 義光
(中国日本商会 名誉会員)

 
 中国日本商会
 100022 北京市建国門外大街甲26号 長富宮公寓1層 104室
 Tel. 6513-0829 6513-0839 Fax. 6513-9859
 E-mail: cjcci@postbj.net
Last Modified 2008/07/01